Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

わかっていないのに、わかってる:あるいは腹の虫が言うことを聞いてみること

 

時々、「わかっていないのに、わかっている」と感じることがあったりする。あれはなんなのだろうか?

その昔、ジャンケン大会みたいなものに参加した時のことををよく覚えている。

何か懇親会のようなものがあったと想像してほしい。そしてその余興で、賞品をかけたジャンケン大会が始まった。

主催者と参加者がみんなでジャンケンをし、主催者に勝った人が勝ち残る。そして誰かが賞品にたどり着くまで続ける。……というアレ。

その途中、なぜかわからないのだが、「勝てる」という確信めいた気持ちが生まれた。なぜ勝てると思ったのかはわからない、けど、自分が出したいテを出せば勝てる、間違いない。……そんなフィーリング。

そして実際に、勝った。

普通なら、たまたまだと解釈するところだろう。しかしそれにしては、妙に自信があった。間違いなく勝てる。……これはなんだったのか?

その答えに気付いたのは、主催者に「読んでたね!」と声を掛けられた時。

どういうことかと言えば、主催者は「パターン」を作って手を出していた。例えば必ず①グー、②チョキ、③パーの順でローテーションする、というような。

つまり規則性があった。そして自分は、それに合わせたテを選択していた。主催者としては「読んでたね、合わせてきたね」ということになる。

意識としては、その規則に気付いていたわけではない。言葉で「あ、これは規則がある」と認識したわけではない。しかし……、もしかすると、意識と無意識の間、中間意識?みたいなところまで、その規則があることが出かかっていたのかもしれない、とも思ったりする。いずれにせよ、自分がしたことに驚く、おもしろい経験だった。


広げて言えば、無意識、というテーマなのかもしれない。どちらかと言えば意識側 or 理性側に偏りがち、と思われる自分にとっては、新鮮なテーマでもある。

とは言えもちろん、思い出してみれば、頭の良い人たちがすでに言っていることでもありそうだ。有名な「暗黙知」なのかもしれない。「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる。」というアレ。↓

 


「ひよこ鑑定士」の話もおもしろい。

ひよこのオスメスの判別は、職人技らしい。「ここにでっぱりがあるのがメス」というようなわかりやすいものではなくて、非常に微妙であいまい。素人にはなんの差も感じられない。言語化も難しい。でも、トレーニングを積むとわかるようになる。

という話が出てくるのは、デイヴィッド・イーグルマンの本。これも無意識に近いところでの理解、判断の話に思える。

 

もしあなたが初めて脳とか意識とかについて何かを読もうと思っていたとしたら、間違いなくおすすめしたいのがイーグルマン。

 


また、近頃は、腸が「第二の脳」などと言われるらしい。これも無意識側の一要素なのかもしれない。おもしろそうだ。

腸が行っているなんらかの情報処理の量は、脳のそれに匹敵する。そういう事実が明らかになってきたらしい。腸は健康だけではなく、なんらかの選択や行動、気分にまで大きく影響を与えている。

言い換えれば、今感じている、憂鬱 or 楽しさ or 不安 or 快感……は、腸が元になっているのかもしれない。腸が気分を左右しているのかもしれない。

腸の中には、膨大な細菌類が住んでいる。全部合わせると、人体そのもののゲノムより多いゲノムがあることになるらしい。そう考えると、人間は腸内細菌に操られているのでは、などと妄想したくなる。カマキリの寄生虫ハリガネムシは有名だと思う。カマキリの内臓に寄生し、成長する。良い頃合いになると、カマキリの行動を操って水辺に移動させる。そして自分は水中に戻って、繁殖行動に移る。同じように、人間も腸内細菌に行動を支配されているとしたら……。

 


というのはまあ考え過ぎで、共生関係なのだろう。互恵的、というか。長い年月の中で生まれた、驚異的、とも感じられるある種のシステム。考えれば考えるほど、どうしてこんなもの(人間というシステム)ができたのか、と驚かされる。

とは言え、いずれにせよ、意識できていることだけが全てではない、というのは近頃強く思う。これが行き過ぎると「オカルト」などと言われるエリアに脚を突っ込んでいくことになると思うのだが、一方で、人体に関して新たな発見が連なり、20年前とはまったく違う見方をしなければならない、ということが言えるのだろうと認識している。ひと言で言えば、「人体の仕組みは思っていたよりも1万倍複雑」という感じだろうか。

ヒトとその腸の関係については、例えば↓

 


ジャンケン大会の規則性は一つの例に過ぎなくて、きっと常に、あらゆるところで、無意識の学習を繰り返している。赤ん坊のころに歩けるようになるのもそうだし、自転車に乗れるようになるのもそういうことのように思える。そういう学びの繰り返し。意識と無意識のフィードバックループ。当たり前と言えば当たり前。

ただ、大人になると、思考や意識が勝つようになるというのが自分の感想。それだけに、無意識を意図的に重んじなければならない、という(わけのわからない)ことも思うようになってきた。

例えば英語を学ぶ時、どうしてもスピードというかコスパというか、ラクに速く学びたいと思う。つまり、理屈で考える。

しかし一方で、実際に英語が使えるということは、ほぼ無意識的なもののような気もする。そして無意識的な学習は、時間がかかる。だから、愚直に「量」をこなすことも重要だ。あえてその道を選ぶことも必要だ。

少し広げて自分を観察してみると、日々の行動や選択も、かなり無意識のうちに行われている。何を食べるかとか、本屋でどの本を手に取ってみるか、どんな服を着るか……、それほど意識的に考えてはいない。

前に少し書いた、「体が選ぶ道具」というのも、無意識的な働きのように思える。

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単純に言えば、理屈とかコスパとか合理性とかじゃなくて、エモさ。それが、体が知っている「良きモノ」なのかもしれない。だとすれば、理屈をこねるよりも、渋谷あたりに行って若者に何かを学んだ方がいいのかもしれない。

あえて「分別ざかり」を捨てる。いや、分別ざかりと言われる年齢だからこそ、エモさを追っても、おかしな所に至らないで済む。そういうことも言えるかもしれない。