Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

打合せの道具を眺める遊び

打合せや取材の時、ついついひとさまがどうメモをとるのか見てしまう。

観察、というほどのことではなく、失礼ながら、みなさんがどう仕事をしているのか少しのぞき見させてもらうのが楽しいというそれだけ。自分にちゃんとメモを取る能力がないことを自覚していて、書ける人が羨ましいのかもしれない。近頃はオンラインが多くて、相手の様子はよくわからなかったりするのが残念だ。

今となっては、ノートPCでメモを書く人が多い。自分もやる。なんと言っても書いた後が楽。後に少し手直しして、議事録としてSlackのようなものやメールで共有できる。速い。Zoom等の場合なら、テキストエディタEvernoteの画面を共有して、ホワイトボードのように使ったりもできる。

対面での打合せでは、紙のノート的なものを使う人もまだ多い。こちらの方がバリエーションが多くて、見ていて楽しい。

普通の、100円かそこらで売っているボールペンを使っている人が多いだろうか。三菱のジェットストリームパイロットのフリクション……等々。その辺にあったもの、という人も多いだろうし、書き味が好みで、あえて選んでいる人もいるかもしれない。

マイナーなものを使っている人はこだわりがあるのかもしれないと思い、楽しい。例えば油性ボールペンの場合、0.38mmとか、すごく細いものを使っている人。細かく書き込むというのが快感なんだろう。逆にあえて太い人もいる。おじさんが多いように思える。1.0mmとか、時には1.3mmとか……。個人的には太い油性ボールペンはムードがあっていい。野外や現場、つまりなんらかのフィールドで実用的、という感じがある。ノートの罫線など無視して、ざっと書き殴る。いい。

筆記具に関しては、こだわるとキリがない。高級な方に関心がいく人も、少数ながら存在するようだ。一番分かりやすいのは、モンブランの万年筆をおもむろに机に置く人。10万オーバー。……ただし、それで実際に何かを書いている人は見たことがないけど。

それほどでなくとも、ちょっと高級なもの、という場合もある。金の金具とかクラシックなデザインとか。パッとみただけでメーカーが分かるほど詳しくはないけど、それらしきものを使う人もいる。……でも、総じて、やはり高級な筆記具を持つ人が、実際にメモを書いているイメージは……あまりない気がする。

個人的に言えば、日本メーカーの5,000円以下ぐらいの筆記具は、どうにも不安定に見えてしまう。デザインされているのか単にそれっぽいのか、よくわからなかったり。特に多色ボールペンなんかは、どうにも落ち着かない。とは言え工業製品、そしてその値段というのはそういうものだと思う。

5,000円以下でも、ロットリングのマルチペンは落ち着く。実用品を堅牢に作りました、この値段です。……とドイツ人が言っているのがイメージできる(妄想)。特にペン先を引っ込めるアクションがいい。クリップを開く動作で収納できるのだが、この方式だと、シャツのポケットに挿しておく時、必ずペン先を引っ込めることになる。ので、シャツをインクで汚してしまうことがない。よく考えられている。

価格的なことを言えば、総じて海外製品は、安くても納得できるデザインであることが多いように思う(見た目的な意味で)。LAMYのSafariはどれも納得できる。ただし、細部の精度や実用的な性能はまた別の話で、実際にがつがつと使うものを選ぶとなると、日本製を手に取ることも多い。

特にパイロット製品。これは個人的な思い入れだけれども、パイロットの製品はどれを使ってみても納得がいく。油性ボールペンならアクロボールシリーズ。おそらく多数派のジェットストリームもいいけど、自然とアクロボールを手に取っている。これはフィーリングに過ぎないけれど、ジェットストリームは「インク出過ぎ」と感じるのかもしれない。それと、アクロボールの方がやや黒い。黒が本当に黒、というか。ボールペンなのに消せるフリクションも便利だし、安価なシャープペンシルも信頼感が高い。細部の精度が高くて、使っていて不快なところがないのだと思う。

パイロットは万年筆もいい。「カスタムxx」というシリーズがメジャーだろうか。海外製品より数割安く、安定性とか書き味とか、機能面ではずいぶんとハイクオリティに思える。数千円の万年筆も納得がいく書き味だし、1,000円のカクノというのも良かった。もっとも海外の高級品をたくさん使ったことがあるわけではない。ただ、少し古いモンブランは使っていて、確かに良いものではある。

……個人的なペンの好みの話ではなかった。打合せのメモの話。

書くものじゃなくて、書かれる側(?)、紙の方。これもいろいろある。

やはり多いのはノートだろう。そしてノートと言えば、コクヨのキャンパスノート。どこにでも売っていて、安く、ただ「ノートを買おう」と思ったらコレになりそうな気もする。

キャンパスノートは、実はかなりすごいノートだと思っている。何がすごいって、その「綴じ」について。まず、開いたときにピシっと平らにできる。紙が浮いてフカフカしたりしない。これはノリで綴じてあって、しかも精度が高いから、と理解している。そして、にも関わらず、強い。ノリ綴じのナマクラなものは、耐久性がないように思う。紙質は普通に使って問題なく、そしてトドメとして、安くてどこにでも売っている。

綴じノートで思い出すのは、ツバメノート。これは紙がいい。溺愛している、と言っていい。けど、打合せで使っている人は……、あまり見ないかも。好きな人は多いと思うのだが。個人的にはこれがレギュラー。

その他、リングノートの類いも本当にいろいろあって、見ていて楽しい。ミケルリウスの分厚いA5ノートなんかは、アメリカの大学生のようで、「ああ、この人は大量に書く人だ」と思ったりする。書いて考える人かな、とか。

ロルバーンというのもよく見る。厚めボール紙の表紙と、黄色い方眼紙。きっとノートの類いが好きで、かつヘンなこだわりがないまっとうな人なんだろうか、と妄想したりする。

手帳、というかスケジュール帳orダイアリーのようなもののノートページに書く人もたまに見るが、ページ数は足りるのだろうか、と不安になる。それほど書く量が多くないか、とてもすっきりまとめられる人か。

ノートじゃなくて、パッドの類いのこともある。いわゆるレポートパッド、みたいなもの。この場合に気になるのは、書いた後どうしているのだろうか、ということ。

つまり、書いたものは綴じられていないペラっとした紙になるわけで、散逸しやすい。扱いが難しい。スキャンしたり、案件ごとのフォルダに投げ込んだり、あるいはパッドでも切り離さずノートのように使っているのか……。細かい人は、パッドに書いて、後でデジタルデータに書き直したりするのかもしれない。

かつて実際に遭遇して印象的だったのは、某財閥系研究所の人。A4のノートパッドに、0.3mmぐらいの極細ジェルボールペンで、5mm方眼に合わせた文字をびっしり書いていた。チラっと見えた感じでは、広い紙面が、その細かい文字で黒々としていた。いかにも研究職っぽい感があって、まったくもっていい加減で整理の悪い自分から見ると、その精度がちょっと羨ましかったりする。

打合せではないのだが、喫茶店で見かけた白人の女性のことも思い出す。キャンバスの素っ気ないバッグに雑多なノートを数冊。手元には無印良品と思しきノートを置いて、あれこれ書き付けていた。時々バッグの中のノートを参照して、また手元のノートに何ごとかを記す。執筆を生業とする人か、あるいは人文系の研究者か。いい景色だった。サマになっていて、ほれぼれした。

文筆家であれば、その構想ノートとか取材ノートみたいなものを見られる機会がある。例えば司馬遼太郎であれば、『司馬遼太郎が愛した「風景」』のような、作家についての本で見られる。記念館、のようなところでも見られる。

なんにせよ、その人のこだわりというか、スタイルというか、方法というか……を見るのは楽しい。あえてこだわらない、というのも含めて。みなさんに幸あれ。

「手帳」という憧れの景色

時々、フと「手帳ってもっと有効につかえるんでは?」などと思って、検索してみる。

……と、なんだかすごい。いろいろな人がいろいろな工夫をしている。使いこなしている。その技術がいろいろ整理されている。

それにこの季節になると、来年の手帳が文具店だけでなく書店でも並び出す。そしてびっくりするぐらいバリエーションがある。それだけ売れる=みなさん有効に使っていらっしゃる、ということだろうと思う。

翻って自分のことを思ってみれば、まったく使いこなせている気がしない。「そうかやはり俺はそちら側の人間ではないか」と妙な納得をしたりする。テキトー部族。だから何か手帳のようなものを使いこなしている景色には、憧れたりもする。しかし、納得のいく手帳を作れたためしはない。

スマートフォンが出てからは、そのやりきれていない感じが加速した。アポイントもメモも、それで済む。より手帳の存在意義がわからなくなってくる。道具が二重になって、むしろ管理の方法があいまいになる。

手帳を使いこなしている人には、何か秘訣があるのだろうか。あるいはそもそも部族が違うのだろうか。

とは言え、未だに、かろうじて、紙の手帳を使っている。毎年買っている。有効に使えているかははなはだ疑問。とは言え、後で見返したらそれも一興かも、ということで、試しにどう使っているか書き残してみる。


自分の場合、強いて言えば「大きな流れ」を掴もうとしているかもしれない。考えてそうした、というよりは自然にそうなってきた。

大きな流れとは、例えばこの先1か月〜3か月くらいのスパンでの仕事の波予測・予報とか。あるいは過去半年、どんなことを考えてきたか、とか。そういうスパンの流れ。

デジタルではこれが意外にやりづらい、という感触を持っている。例えば、Googleカレンダーで、「その月に関するメモ」は書けるのだろうか。例えば、

「9月は集中的に横溝正史を読み返す」
「4〜7月 主に鎌倉時代について調べていた」

……とかなんとか。きっと書けるのだろうが、いずれにせよあまり直観的ではない書き方になるのではないか。紙の手帳だと、ざっくりとどこにでも書いておける。そして視界に入る。

カレンダーにせずとも、例えばメモアプリにそういうことを残しておいてもいいかもしれない。が、やはりあまり直観的・シンプルにならない感触がある。他のメモと紛れたり、紛れさせないためにフォルダ分けや小細工をしたり……。ならば、紙の手帳にサっとメモしておいた方がわかりやすい。……という感触を持っている。

逆にというか何というか、ごく一般的に手帳に書きそうなことは、だいたいデジタルでやっている。つまり日々の細々としたメモやタスク、もちろんアポイントの管理も(住所録というものは生まれてこの方持ったことがない)。

では、紙の手帳に何を書いているかと言えば……↓↓

▾過去のこと(実績)
    ・取り組んでいた仕事
    ・読んだ本
    ・考えたこと(の見出し)
    ・やったこと

▾未来のこと(見通し)
    ・(一応)アポイント
    ・その週・月・四半期・年等のざっくり計画、目標
    ・作業に取れる時間枠
    ・ふんわりした「これしたい」みたいなタスク、願望
    ・重要なイベント

こういうものがあると、少し安心する。何か少しでも為すことができた気がする。あるいはこの先、どのくらい時間があって何をできるのかできないのか、仕事を引き受けていいのか引き受けるべきでないのか……、が見通せる(妄想かもしれないけど)。

言い換えれば、少し賢くなったような気がして、真人間になったような気がして、精神衛生によろしい。日々の忙しさやストレス、嫌な気分、惰性……等々に左右されてしまう感覚に反抗できる。実際は環境や状況に流されているのは間違いなく、しかしそれでも、多少なりとも自分でコントロールしている感があった方が……、今のところはいい。

「イライラは見通しのなさ」と言ったのは河合隼雄だけど、確かに、見通しがあった方がいいように思う。おそらく手帳を使わない人も、何かしらの形で同じ効用を作っているのではないか。


ただし、考え始めると、今の方法はなんだかスマートじゃないと思うのも確か。

手帳があり、Googleカレンダーがある(日常の業務で、仲間と共有している)。今抱えているタスクをまとめたテキストがある。日誌があり、そこにも「やったこと」が書いてある。一元管理できていない。

手帳に書いてあるアポイントとGoogleカレンダーにあるアポイントは当然ながら手作業の同期で、原理的にマージ漏れが発生しうる。

何かを記入しようと思ったら、Googleカレンダーと手帳、両方に記入しなければならないというダメな感じ。

思えば、昔は単純だった。手帳が一冊あって、そこに全てが入っていた。アポイントもToDoも連絡先も。それを見れば万事OK。……というのは過去を美化しているかもしれないが、今よりシンプルだったのは確か。今、そんなシンプルさはむしろ贅沢と言えるかもしれない。


……などと書いてみると、なにやらいろいろ工夫していると思わなくもないが、しかし一方で、計画至上、意志の力でのコントロール至上、と思っているわけではない。偶然とか流れとか、そういうもので何かを発見することは多い。意志の力は信用できないところがある(と、年々強く感じるようになってきている)。自分の中では「創発的なグッドバイブレーション」と読んでいるけど、それが一番重要かもしれない。

あるいは、計画などせずとも、ただただ一心不乱にフロー状態に入れるなら、それが一番。そういう人はある種の天才だ。

そもそも、冒頭に書いた通り、ちっとも計画できていない。そういう性質を持っていない。いや、計画はできるが、計画通りにモノゴトを進められない。トラブルも割り込みもある。当然ながらひとさまあっての我が生活、全て自分の思い通りにできるわけではない。なにより、ダメな、テキトー部族の自分もいる。

にも関わらず、コントロール願望を強めすぎると……、どこかで破綻する。全てを手中に掴んでおきたいと思えば、終着点はストレスまみれ。

ということで、その塩梅が難しい。中庸、というのが一番難しい。というのが今のところの感触。

モヤモヤしたら、そっと動く

ある夜、疲れ果ててぼうっとテレビを眺めていたら、若い女性アイドル(?)のような人が「ドヨンとした」経験について語っていた。

同じようなポジションの別の人が、「いい番組」の司会に決まったという。後輩のような人に追い越されたか、場所を取られたというようなことを思って、2、3日へこんだ、ドヨンとした、とか。本当に芸能界は大変だ。

しかし、それに近いようなことは誰の身にも起こることかもしれない。食っていくための働き口とか、あるいは業界のトップ争いとかでも。いつもケツを叩かれてしまう。少し違う話だが、若い人は、美しくいたりかわいかったり、かっこよかったりセンスがよかったり……そういうことの比重が大きそうにも思える。その価値観を強いられてしまう人は、本当に大変だと思う。

もちろんそういう競争原理が原因でなくとも、だれでもドヨンとしたりモヤモヤしたり、うつうつとしたり……ということはあるだろう。

自分も、「はー、まいったな……」とモヤモヤウツウツ。未だにそういうことがある。

いい歳して冴えん、とも思うものの、まあしかし、そういうものなのかもしれない。この歳にはこの歳なりの課題がある。時にはなかなかそこから脱せずに、長く低空飛行が続くこともある。しんど。


そんなときには本を読んだりもする。

一番危険なのは、そういう気分をのぞき込むような本かもしれない。嫌な気分を解消したくて、「読むだけで心が晴れる本」的なものを眺めてみたり、あるいはちゃんとした医師や研究者が書いた学術書のようなものを読んだりする。しかしこれは、効果があることもあるかもしれないけど、悪化させることもあるようにも思う。どういうことかと言えば、よりその問題にフォーカスして、思考がグルグルして、ドツボにはまってしまうという危険性のこと。

例えば嫌な気分のメカニズムについて書かれた本を読めば、どうしたった自分の嫌な気分を意識に登らせてしまう。見つめてしまう。そうすることで、より気分が悪くなる。忘れがたくなる。もちろんその解消法も書かれているのだろうけど、効くとは限らない。だから、もしそういう本を読もうとするならば、「平時」に読んでおいた方がいいのかもしれない。

現実から距離を取らせてくれる本、というのもある。個人的にはこれが望ましい。

つまり、山川草木の本とか、マンガとか、歴史ものとか純粋エンタテインメントとか……、つまり、現実の生活と距離があるもの。ああしろこうしろと迫ってこないもの。『ムー』でもいいかもしれない。できれば、今のその気分をうっちゃってくれるほどにおもしろいもの。心地良いもの。そういうものがある人は幸福だ。


とは言え、モヤモヤとか、つまり「気分」の問題というのは難しい。アタマではどうということはないとわかっても、気になるときは気になる。過ぎ去ったこと、だとアタマではわかっていても、簡単には流せなかったりする。切り替えて次に行こうと思っても、自分のハラは許してくれない。なんの拍子か、どんどんドツボにはまっていくこともある。もちろん、今後も続くであろう苦労、というのもある。先のことを想像すると、余計に気が重くなるタイプの。

個人差は大きいと思う。個人的にはややネガ寄りの体質なのかも、とは思う。暗黒面に引きずられやすい。もちろん、同じことが起こったとしても、ぜんぜん何も気にならないこともあるし、逆に必要以上に気を揉んだりすることもある。過去に適応障害という診断をもらったことがある。それ以降、100%になることはない。一方で、慢性うつ病とまではいたらない。そういう方たちは、本当に大変だろうと想像する。影ながら、少しでも良くなるよう祈っている。

時には気っ風のいいアネゴに、「あーめんどくせ、ごちゃごちゃ言ってないでメシ食って寝ろ!」的なことを言われたこともあったような気がする。確かにその通りと思いつつ、しかし、ね。なかなかそうはいかない。本当に、そのねえさんも常にそういうことができるのだろうか、などとも思う。

具体的な課題・問題があってモヤモヤしているのはまだいい。問題が明確なら、何か対応を考えるという行動に移っていくことができる。「はーなんで俺英語が使えないんだろ」と思ったら、結局は勉強するしかない。もっとも、それはモヤモヤというよりはグズグズ。

課題・問題がはっきりしないことも多い。あるいは自分ではどうすることもできない場合。冒頭の女性タレントで言えば、司会というポジションのために自分を磨くこともできるだろうが、しかし最終的にはキャスティングをする誰かの判断。それは自分でどうもこうもできない。また、誰かの心ない(と受け止めてしまった)言葉にモヤモヤしているとしても、その発言を消すわけにもいかず、究極を言えばその言葉が気ににならなくなるように自分の受け取り方を変えるしかない。が、そもそも自分を変えるといったって、すぐにできるものでもない。

ぼんやりとした不安、というヤツもある。見聞きしたところによると、この気分を感じる人は多いらしい。個人的にもそういう経験はある。ずっとではないが、時々。漠然とした未来への不安に立ちすくんだり。


しかしそれにしても、そもそも、気分とはなんなのだろうか。改めて考えてみると、よくわからないものでもある。

ある脳科学者による解説だと、気分とは「その瞬間に体で起こっていることを要約し、この要約を<気分>として感じる」ものだという。体の中では各器官やホルモン系、免疫系などが膨大なデータを生み出しているという。そして通常、ヒトはそれを意識できない。脳はこのデータから、意味を構築して、気分を生み出す。(『バレット博士の脳科学教室7 1/2章』リサ・フェルドマン・バレット 紀伊國屋書店

これはなんとなくわかる。いや、意識できないデータのことはもちろんわからないが、全体の要約、というコンセプトは理解できる。そういうもんかもしれない。多少の不安があっても、目標に向かって突き進んでいるような時は、後者が勝って、モヤモヤなどしていないだろう。充実している、という気分になる。

しかし、もしそうだとすれば、ややこしいのは、まったく意識できない要素が含まれていることだろう。

不安という部分を切り取って言えば、不安遺伝子、というような言い方も聞いたことがある。これも自分では意識できない。遺伝子のタイプで、セロトニンだかなんだかを多く作れるヒトと、少ししか作れないヒトがいるらしい。セロトニンは精神を安定させるとか。そして日本人は、少ししか作れないタイプが多いらしい。とは言え、体験的には、おそらく環境とか育ちによる部分も大きい。

セロトニンに関連して言えば、ドーパミン。これも意識しようがないが、素人の理解では、「何かをしたい・為したい」と思わせるホルモンらしい。意欲、と言えばよいか。確かに意欲があれば、モヤモヤしづらいかもしれない。前向きに行動できるかもしれない。だが例えば延々とTwitterを見続けるとか、しじゅうスマホを見るとか、あるいはギャンブル中毒になるとか、そういう依存的行動もドーパミンと強く関係しているという話も聴いたことがある。つまり、ヒトをおかしな方向へ突き動かす力もある(そういう人生もオツかもしれない、とも思うが。ちなみに、このドーパミン、「満足感」とは別モノで、単にヒトを行動に駆り立てる役割らしい)。

まあ、モヤモヤでもなんでも、気分というのは難しい。わからない。脳科学でも哲学でも神経科学でも、意識の研究は進んでいるが、しかし、意識──ここでは「モヤモヤ気分」に曲解して──がどう生み出されるか、すべて解明されているわけではない。


わかっていないなら、対処の方法がない。……というわけでもない。個人的には、少しはマシになる方法がある。

ひとつは、先に書いたように、本とか、そういう別の世界で過ごしてみる。映画でもマンガでも。

もうひとつは、ちょっと、そっと、行動してみることにしている。

なんでもいい。ツメを切るとかちょっと掃除するとか。ゴミを出しに行く。歯を磨く。顔を洗う。風呂を入れる。机の上を片付ける。モノを捨てまくる。メモを書く。親に電話してみる。30分、早足で歩いてみる。

仕事なら、5分だけやってみる。タスクを書き出してみる。メールの下書きだけ書いてみる。ゴミ箱を空にする。デフラグしてみる(古い)。キーボードを掃除する。

本当にドヨンorモヤモヤorうつうつとしているときは、そんなことすらもしたくないかもしれない。が、前述のように、「気分とは要約に過ぎぬ。現状、全てが悪いわけではない」と言い聞かせて、少しだけやる。やると、もうちょっとやりたくなる。最終的には、初めはいっさいやる気にならなかった、企画書が進んだりする。

そうなれば、モヤモヤは少し晴れている。気分が変わって、少しマシになっていることが多い。手近な例だと、単に面倒でやりたくない仕事も、5分やってみれば30分続けられるかもしれない。すぐにはモヤモヤが晴れなくても、そうした行動を積み重ね、気分を上書きしていくことで、いつかは少しマシな時が訪れる。

言い換えれば、気分などたいしたことではない、と捉える。あるいは、気分を重視し過ぎない。

ポイントは、「そっと」というところ。気合いを入れて動くわけではなく、静かに、シレっと始めること。構えたら重くなる。自分でも気付かないうちに始めていた、ぐらいがベスト。そうすれば何かが動き出す。

北方謙三は、「ソープに行け」と言ったらしい。開高健は、「とりあえず、引っ越ししてみたらドや」などと言っていた。それもそういうことだろう。動いてみよ。

あるいは、茶道、茶の湯というのは、心を整えるためのメソッドでもある。作法は単にマナーの問題ではなく、行動から良い心を生み出す知恵でもある。禅は、座って瞑想するものではあるが、それも行動。またもし修行をするなら、日々の行動も厳密にプログラミングされていて、その行動も、もちろん心を整えるためにある。「禅とは、巧妙に設計された精神の訓練法である」と看破したのは梅棹忠夫

もちろんリアルで明確な課題があって気分が優れない、モヤモヤするなら、どうにかしなくてはならない。より具体的な行動を取らなくてはならない。あるいは、そもそも気分というシステムが備わっているということは、きっと生き物に必要な機能なのだろうとも思う。体の要求に逆らい続けてもよくない。しかし、現代社会には動物的な意味での生存の危機はほとんどない。ならば、多少気分を無視しても問題ない。……と思っている。

もちろん、本当に何もできないような時は、ちゃんと休んだり、誰かの力を借りたりすべき時だろう。ムリは良くない。体の要求というか、意識できない脳の働きを無視しきってしまうのも良くない。アタマ偏重はイバラの道。ヒトはマシンではない。

だから、あえて行動しないというのもひとつの道だろうと思う。とことん、自分の気分や意識に付き合ってみる。のぞき込んでみる。そうせざるを得ない時もあるかもしれない。そのプロセスも何か生むかもしれない。それもまた道。例えば、モヤモヤの原因は、半ば気付かず、あるいは気付いているが無視し、長らく放置している「人生の課題」みたいなものなのかもしれない。それに気付けるかもしれない。

あるいはもっと突き詰めるなら、それは哲学になるような気もする。考え続けることができる人は、哲学のセンスがある人かもしれない。それもまた道、と思う。

 

私家版 ちょっと心を軽くする、理屈っぽいアプローチ

テレビで、あの『5億年ボタン』がやっているらしい。もう10年以上も前に、YouTubeか何かで見てとてもイヤなor不思議な気分になったことを覚えている。

5億年ものあいだ、ひとりで、何もない空間で、何もすることがない。という地獄。

そういう思考実験。時間とは。存在とは。記憶とは。人間とは。……なんていう話まで広がっていく。それまでの哲学の議論を紹介する内容、と言えばそのとおりなんだけど、カジュアルな表現手法の中に、何かヤバイものが潜んでいる。(オリジナルは、『週刊SPA!』連載のマンガらしい。)

テレビ版公式サイト↓

500000000button.com

 


個人的にも、「心の科学」みたいなものには興味がある。意識とか思考とかの正体はなんなのか、というような話。哲学という分野で語られることもあるし、認知科学とか神経科学とか脳科学とか、自然科学的な文脈で語られることもある。

いろいろな人がいろいろなことを言っているけど、個人的に気に入っているのは、『「いま」の土俵"』の話。

哲学者の森岡正博さんという方が書いていらっしゃる。↓↓

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短く説明するのは難しいけど、個人的な解釈をすれば、意識は「いま」の土俵がすべて、ということ。過去も未来もなく、今しかない。それだけ。いろいろなものが、いまの土俵に登ったり消えたりしている、という話。(本当は、意識の問題ではなく時間論の章で語っていらっしゃるし、この本に書いてあるのはそれだけじゃない)

 

これと似たような(と個人的に思える)解釈は、認知科学の分野でも存在する。↓↓

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オビには、『あなたが「思っている」と思っていることは、全部でっち上げだった!』と強めの言葉がある。原題は『The Mind is Flat。つまり、意識みたいなものはうすっぺらで、即興で創られた間に合わせのもので、無意識の思考とか深層心理とか内的世界とか、そんなものは存在しない、という説。おもしろい。

よく、意識というものをどう捉えるか、氷山に例えられる。当人が意識するのは、海面から顔を出している部分だけで、本当はその下に膨大な深層心理がある、というようなモデル。しかし、チェイターはそれをバッサリと切って捨てている。意識とか心とかは、表面的なものにすぎない。

 


この『「いま」の土俵』と『Mind is Flat』というアイデアの何がいいかと言えば、なんだか少し、心が軽くなるところ。……どういうことか。

例えばフロイトのように、なんだかよくわからない深層心理がヒトを形作っているとすれば、なかなか重たい。重苦しい。過去の記憶や情動がすべて、とするならば、自分ではどうにもならない感じもある。

一方で、うすっぺらな土俵に過ぎないとすれば……、意識とか心とか、それほど重要じゃない気もしてくる。いや、確かに重要なものではあるのだけれど、しかし、多くの可能性があるように思えてくる。次の瞬間、まったく違うことが意識の土俵に登ってくるかもしれない。いろいろ変えられるかもしれない。今、この感情や意識を重く捉えすぎる必要はない。……というような感じ方。なんせ、うすっぺらなんだから。

そもそも、まんがの中にもあるけれども、その土俵にいろいろ湧き上がってくることが、なんだかすごい。楽しい。喜ばしい。生命の不思議。

もちろんフロイト的な部分もあるだろうし、DNAレベルで、持って生まれた土俵の傾向なんかもあるのかもしれない。本当に辛い経験をした方たちに軽々に言えるようなことでもない。が、もしかすると、心は思ったより軽いのかもしれない。

固定的で、硬く、大きく、深い無意識的な氷山ではない。変化し続ける土俵、あるいはフラットで薄っぺらな即興なのだとすれば、変わったり、発展したり、楽になったり、楽しくなったり、成長したりする余地がある。そんな気がして、少し、生活が軽く、楽しくなる。

 

あまりあたまが良くないらしいので、紙を使うこととか

未だに、紙を使う。スクリーンだけ、モニターだけでは捗らない。

もうかれこれ30年以上はスクリーン、というかコンピュータを使い続けてきた。PC98とか、♪人々のHiTBiT、とかなんとか、昔話をしてもしょうがないけれども、それなりに馴染んできたつもり。スマートフォンもiPhone3Gからずっと。……しかしそれでも、未だに紙とかノートとかペンとかに頼っている。

一方で、もはやデジタルデータからは逃れられない。何かの情報を蓄積しておくのに、今はEvernoteを使っている。これなしではちょっと困る。

通常、仕事のメモをとるのには、キーボードでパチパチ(あるいはリアルフォースを使ってスコスコ)とやった方が速い。特に今はオンラインのミーティングが多い。その場でメモを取りながら、その画面を共有しながら進めるとすっきりと進む。そのまま議事録にできる。

仕事や生活上で残しておきたい情報も、スクリーン上からやってくることが多い。その場合、ワンクリックでEvernoteに収められる。とっさのメモも、スマートフォンならたいていの時と場合に身につけていて、時機を逃さない。

……などと考えて行くと、紙など使わずにデジタルに集約してしまった方が便利だと思う。理屈で言えばそうなる。書いたモノがコンピュータと紙に分散しているのは美しくない。一箇所にまとまっているのが理想だ。デジタルなら何年か前に書いたモノもすぐに検索できる。自分の文字が汚くて判読不能ということもない。

たまに対面のミーティングをした時、ノートを取り出すと、旧人類になった気になることもある(IT戦士な人たちに囲まれている時)。メールにコピペするとか企画書に流用するとか、そういう再利用ができないのも不便。書き直さなければならない。

などと考えて、デジタル一本槍にした時期もあった。いや、ずっとデジタルオンリー化を試し続けていると言ってもいい。しかし、毎回必ず、手書きに戻ってしまう。手書きがしたくなってしまう。


なぜ手書きをするのか、その理由についてずっと考えてきた。

図みたいなものが書きやすいとか、ペンとノートが気持ちいいからだとか、PCなりスマホなりの操作のことを考えずに書く内容だけに集中できるからだとか、単なる慣れとか。あれこれあれこれ。

もちろんそういうものもあると思うのだが……、今の結論は、

 ⇒そんなに頭が良くないから

……というところに落ち着いている。

文字という表象というか記号だけで考えられるほど、自分の前頭葉はスマートじゃない。

腕やペンも含めた「身体性」を使うことは、おそらく考えたり覚えたりすることの助けになっている。キーボードで書くのは、脳的にはかなり「自動処理」になっていると思う。手書きもそういう面がありつつも、しかしより多くの感覚を使っている。言い換えれば、刺激がある。

紙の版面をある種の位置情報として使って、考えを構造化したりする。わかりやすい例で言えば、紙の右上のスペースを「本筋とは関係がないがメモっておきたいもの置き場」にするとか。マインドマップでもフィッシュボーンでもツリー構造でも、各種のマッピングを行うことで、考えを整理したり発展させたりするのは、基本的なテクニックと言っていいだろう。それが最もやりやすいのはが、紙とペンだ。

マルジナリアというか、本の余白を自分の内側から出てきた情報の置き場所として使うのも、読書の助けになっている。(これはKindleなどでもかなり近いことができるけど)

1冊のノートの「このへんに書いた」という記憶も何かの手がかりになっている。デジタルで書いたものは、すぐに書いたことを忘れてしまいがちだが、ノートに書いたものは記憶に残っている。それが考える時のよすがになる。紙の本を読むのも、同様に「このへんに書いてあった」という情報をたびたび使っている。

言い換えれば、スクリーン上の情報は、位置情報も物理的存在も持たず、筆者の脳ではうまく扱えない。何か、ふわふわと目の前を横切るシグナルに過ぎない。つまり、文字や記号、数字だけで考えらるほど、頭が良くない。それだから、記号そのもの以外のあれこれの力を借りたい。その最も身近な道具が、紙である、という話。


少し大げさに書いたかもしれない。前述の通り、キーボードで書いていることは多いし、普段からやっているような企画仕事などは、デジタルだけ、スクリーンだけで完結していることが多い。スクリーンだけではいっさい考えられない、ということではない。特に膨大なデータを扱うような時は、スクリーンがいい。

スクリーンで考えるための工夫もしている。テキストエディタを分割表示して、なるべく多くの情報を一覧できるようにするとか(個人的に、一覧性、つまり情報を一目で見渡せるというのはかなり重要なのではないかと思っている。気の利いたテキストエディタには、そういう機能がある)。テキストデータでもアウトラインの機能を使って構造化するとか。

ただ、何か少し複雑なこと、例えば重大な意思決定とか、あるいはこれまでとは違う斬新なアイデアを出したい時とか、生活や仕事のパターンを根本的に変えたいとか、自分の無意識の前提に切り込むような時とか……、とにかく普通と違う答えが欲しかったり、あいまいさや複雑さが高い時。それが紙を使わずにはいられない時だ。


おそらく、紙を使わなくなった、手書きをしなくなったという人は、頭の中で情報を扱うのがうまいのだろう。数学に強い人などは、記号のみで考えることが得意なのでは、と想像する。本当にデジタルネイティブな若い方たちは、きっと違う脳の仕組みをしているだろう。あるいは、近頃はスマートフォンだけで仕事ができる人がいるらしいけど、そういう人もすごい。たぶん、筆者とは頭のデキが違う。

とは言え、与えられたもので勝負するしかない。配られたカードで勝負するしかない(©スヌーピー)。巨大なジェット機の操縦桿が今も変わらずクルマのステアリングのような形をしているのと同じように(何かもっとハイテクな操縦方法があっていいはず。電子制御のかたまりなんだから)、紙を使うのにも理由がある。……などと牽強付会して、紙を使い続けている。

 

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以下、ちょっとだけ補足。蛇足。

▼「一覧性」のこと
何か考えたり意志決定したりする時の「一覧性」については、たぶん昔から多くの人が言及しているように思う。

パっと思いついたのは、例えば↓

発想法 改版 - 創造性開発のために (中公新書)   川喜田 二郎
https://www.amazon.co.jp/dp/4121801369/

有名な発想の技術指南。フィールドワークなどで集めた情報を一覧して、そこから何か言えることを見いだす、という方法。

考えるということ 知的創造の方法 (河出文庫)   大澤真幸
https://www.amazon.co.jp/dp/B01MUF21ZD/

巻頭で、具体的な手法を明かしている。そのキーワードは「一覧性」。

 

▼「位置情報」について
こういう書き方をしたのは、下記の本に影響を受けたから。

脳は世界をどう見ているのか 知能の謎を解く「1000の脳」理論   ジェフ ホーキンス
https://www.amazon.co.jp/dp/B09XV35SNR/

惹句には、「思考とは、座標系内を動き回ることに他ならない。」とある。正直よくわからないで言っているのだけど、自分なりに解釈し、位置関係というのは重要そう、と思っている。

記憶術で「部屋」とか「宮殿」のメタファーを使うらしいけど、それも位置関係が重要だという傍証のようにも思える。

……とは言え全体として、素人の曲解、誤読。

 

▼「飛行機の操縦桿」について
元ネタは、高名な認知学者の本。最近、文庫になって再版された。

人を賢くする道具 ――インタフェース・デザインの認知科学 (ちくま学芸文庫) D.A.ノーマン
https://www.amazon.co.jp/dp/448051127X/

以上。

 

 

読書と目の疲れ

いやはや、暑いですね。

聞くところによると、体が気温に慣れるのには、1〜2週間かかるらしい。たしか6月の中旬に急に気温が上がった日があって、そして今がだいたい2週間後。確かに慣れたようにも思うが、それにしても。

年々、歳を取るにつれて、やっぱり自然の法則に従って、適応力が落ちる。それまで気にならなかったことが、体調の変化として表れたりする。その6月の中旬の急に暑くなった日、そしてその後2〜3日、ちょっと体調を崩した。じっと体力を温存して過ごしたりしていた。

本を読むのも、なんというか、耐久性がなくなった。あまり長いこと読むと、目が疲れたり肩が凝ったり、もしくは体が重くなったりする。血の巡りが悪くなるのだろうと思っている。

ということでちょいちょい休みを挟んだり、散歩に出たり、またはそもそも疲れづらい体勢を取ったり、意識的に調整をするようにしている。特におもしろい本には注意。昔から「巻を措く能わず」などと言ったりするらしい。

▼目の疲れの経験

中でも、読書の大敵は、目の疲れ。

個人的には、スマホのゲームが一番、目が疲れる。アクションゲームをちょっとまじめにやろうものなら、1時間と持たずに目がどんよりして、頭が重くなり、しんどくなる。

そこまででもないけど、読書も疲れる。

iPadKindleは、まあまあ読めるけど1時間以上は危険。

専用のKindleは、ずいぶんいい。

紙の本が一番疲れない。けど、長く読めば当然疲れる。

特にここ2年ぐらいは、スクリーンを見ていることが増えた。打合せとかインタビューとか、そんな時もスクリーン。休みなしで次のミーティングに移ったりもする。以前ならその前後に移動があって、体も目もほぐれたのではないか。今のカタチは効率的なのかもしれないが、ヒトの体の方はそこまで効率的ではない。……と思ったりもする。

目が疲れると、頭痛になる人も多いようだ。肩こりもそうだし、ひどいと背中、腰まで来る場合もある。

個人的にも、少し前、目の疲れが胃腸まで来たのでは、という経験がある。胸焼けのような感じで胃が重い。腸もへんな挙動をする。首、肩、背中まで固まって、凝りが痛みに変わりつつあるような……。

そこに至るまで、休日にミステリ小説を2、3冊一気読みして、仕事で集中したテキスト書きを2日、合間にiPadのアクションゲームをして……というような感じで、ずいぶん目を酷使していた。さらにちょうど今のような季節の変わり目で、寒暖差が激しかった。そういうもろもろが、自律神経なのかなんなのかわからないが、体全体の機能不全を起こした。……はっきりとはしないけど、そんな気がしている。

若い頃は季節の変わり目とか天候とか、体調に影響があるなんてまったく思わなかったし、目の疲れも、自然に解消されていた。今も鈍感な方だと思うが、それでもこうして時々、自分の体のケアを心がける必要がでてきた。

だいたい、40歳ぐらいからだろうか。特に何もした覚えもないのに、ヒザが痛くなったり、アレルギー性結膜炎と言われたり、じんましんが出たり、腕があがらなくなったり。いつも悪いわけではないが、ちょいちょい何か起きるようになった。嘆きつつ、しかしまあ自然なこととして受け入れて、いなすようにしている。

読書に話を戻すと、若い頃に気にならなかった、文字の小ささとか光量のあんばいとか、ある程度気にしないといけなくなった。特に暗いと疲れやすい。明るすぎてもダメだが、暗いのは致命的。

紙質でも、目の疲れというか、見やすさが変わる。ツルツルして光が反射してしまうものは見づらい。

姿勢については前にも書いたが、やはり快適に居られる姿勢、言い換えれば自分の体のスイートスポットは狭くなっている。ちょっと無理がある体勢だと、目も体もすぐに疲れる。

▼メガネとか

メガネの話もある。

自分はものもちがいいらしく、あまりメガネを壊すこともない。また、そういうセンスもないので、アレコレ替えたりTPOに合わせてメガネで遊んだり、といったこともほとんどない。よって、年単位で長く使いがち。

となると、度が合っていない、という状況が発生することもある。度は少しずつ変わるので、合っていないことに気付きづらい。そしてしじゅうそれを付けて生活するものだから、影響が大きい。「なんだか最近、調子が悪い……」「読書、気が進まない……」という時、合っていないメガネのせいだったりもする。盲点。

ということで、特に不満を感じてないとしても、時々メガネ屋さんに行くようにしている。

 

……いずれにせよ、暑さも、目の疲れも、もちろん全体の体調も、みなさんぜひお気を付けください。

RSSリーダーで読むことの個人的メリット

未だにRSSリーダーというやつを使っている。もはやこの言葉を聞く機会はめったにないので、絶滅危惧種というべきなのかもしれない :-0

念の為に書いておけば、RSSリーダーとはサイトの更新情報をまとめてくれるウェブサービスで、好きなサイトを登録しておいて、更新があったらそれをまとめて表示してくれるというもの。

    例えば⇒ https://feedly.com

今は、同じニーズをTwitterなどのSNSが担っているのだと思う。おそらくみなさん、スマートフォンでそういうものを見ているのでは、と想像する。スキマ時間やベッドの中でそういうものを開いて、親指でスクロールして、興味が湧いたものをチラっと見に行く。ざっと見たらまたタイムラインに戻る。横断歩道の信号が変わるまで。眠くなるまで。次の駅に着くまで。♥を付けておいてあとでじっくり読む。上級者ならばPocketなどのあとで読むためのサービスを使う。……とかなんとか、自分もそんなことをしたりもする。

▼モヤっとするタイムラインと、コンプリート感と

ただ、このSNSの、タイムラインとかニュースフィードとかって言われるものが、あまり好きではない。何かモヤっとした感覚がつきまとう。別に「低俗情報やノイズばかりだ」などと非難するつもりはなくて、単に、満足感がない、という言い方が近いか。

例えば新聞というパッケージと比較してみると、その満足感というものを説明しやすいだろうか。新聞は1日1回届く(夕刊は置いておいて)。前日までの、一応ある基準に則った、価値があると判断されたニュースが一箇所にまとまっている。コレさえ見ておけば大丈夫、網羅している。……というような気分になれる。内容の善し悪しはさておき。

この気分をまとめてみれば、「コンプリート感」とか「安心感」、「ちゃんと見た感」などと言えそう。つまり、一定の満足感がある。

RSSリーダーにも、一定の満足感がある。自分が「見ておくべき」と判断したものが、すべて視界に入る。そして登録したサイトは限られているので、終わりがくる。逆に言えば、重要なサイトの更新情報はコンプリートしている。流れについていっている。情報を押さえている。

対して、タイムラインは、終わりがない。まとまってもいない。網羅してもいない。延々とスクロールできる。終わりがない。自分がフォローしたものが終わったら、別に友達でもフォローしているわけでもない、おもしろツイートとか釣りっぽい動画、話題のニュース、マーケティングのためのコンテンツなんかが流れてくる(そしてその合間に広告)。それがいいとか悪いとかではないが、どこで満足すればいいのかわからないのは確か。

▼読む時の、心地よさという要素

……伝わるだろうか。つまり、タイムラインに終わりがないということは、すべてチェックしたというフィーリングに乏しい。しかも自分が見ようと思っていなかったものも紛れている。まだ、もっと、見られる。対してRSSリーダーは、見るべきものを見切った満足感がある。

頭のいい人たちの言葉を借りれば、ツァイガルニク効果とでもいうのか。ヒトは完了していないことが気になる、というアレ。さらに言えば、やはり、おもしろツイートとか気を引くツイートなどに引っ張られ、注意が散漫になる。その他のアレコレも含めて、SNSのタイムラインには人の注意をひきつけるための機能がある。そう設計されている。

この満足感というニーズ、気分は、ちょっと強迫症的なところがあるかもしれない。神経症的というか、こだわり過ぎ、気にし過ぎ、というか。ただ、残念ながら、自分はそこまでのきっちりさを持っておらず、RSSリーダーの未読記事が数千とかになることも多いし、今は新聞もとっていない。つまりテキトー。

「そんなテキトーなヤツはTwitterでもなんでもいいじゃん」、という話はごもっとも。惰性的にRSSリーダーを使っているという側面も否めない。

とは言え、SNSのダークサイド、ある種の神経ハックをして滞在時間を延ばすという目的には、本能的に反発心を覚える。インターネッツを見るなら、生産的でありたい。余計なものに振り回されたくない。偶然の出会いとかそういうこともあるとは思うが、SNSにキリがないのはやっぱり間違いない。余計なツァイガルニク効果は捨て去って、集中すべきものに集中したい、大事なのはアウトプット。

……そんな気分もあったりして、結果として、RSSリーダーが心地いいと感じることが多い。そして年々、なにかにつけ、理性的な考えの結果としての効率よりも、こうした感覚的な心地よさを重視しがちになっている(当社比)。