Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

細かな作業が嫌じゃなくなる方法 をいいトシして学ぶ

昔から、繊細な作業が壊滅的に苦手だった。そういうものをできるだけ避けてきた人生と言っていい。

学校の授業のノートをきっちりとるとか、家庭科の裁縫の時間とか、プラモデルとか、事務作業とか、きっちりデータを取る仕事とか……。なんというか、徳が積まれない人生であった。

そういう作業は、やっていてとても疲れる。続かない。うまくできない。そもそもやる気にならない。だから、時々テレビなんかで伝統工芸の職人さんの仕事っぷりを見て感心して、しかし「しんどくないのかね……」と思ってしまうアホな自分がいた。

とは言え不思議なもので、最近、とてもちまちました作業を、好きでやっている。何かと言えば、釣りの、毛針を作る作業。フライ・タイイングと言ったりする。

こんなのを作る。↓

できあがりのサイズは、だいたい5ミリから数センチぐらい。写真のは1.5センチぐらい。細かい、としか言いようがない。それはもう苦手。

フライフィッシング=西洋式毛針釣りは、若いときからやっている(腕は万年初心者)。この毛針=フライを作る作業は、釣り自体とセット。フライフィッシングをする人は、自らフライを作ることになっている。だから、苦手な作業なんだけれども、やらなくてはならない。(完成品を買うこともできるのだが、なんだかそれは負けた気分になる)

まあ、苦手なりに、簡単に巻けるフライ(フライを作ることを「巻く」と表現するのが慣わし)で釣ったり、最低限で済ませたり、釣り方でカバーしたりすることで、この釣りを楽しんできた。

しかし最近、この作業が、けっこう好きになってきた。以前は、
「しかたがないから巻く」
という気分が強かったけれど、今は、
「楽しみとして巻く」
という感じになってきた。

なぜか。しかも最近は小さいものが見えないのに。目にも、年齢なりに来たるべきものが来ているのに。

我ながらよくわからない。のだけれども、なんとなく、自分の扱い方がわかってきたから、という気もしている。

いまさらかよ、という内なるツッコミも聞こえるのだけれども、まあ自分がどんくさいのはわかっていたこと。しかたがない。

例えば、あるフライタイイングの中のあるひとつの技術が、うまくいかないとする。下手だとする。以前は、↓

下手だから、おもしろくない。そうなれば、その技術を避けてしまう。それはある意味、楽しさを捨てていることになる。その時自分は、「下手だからしゃあないし、まあこの技術がなくても釣れるし」とややムリヤリに納得する。

が、今は↓

「下手なりに、ちょっとでもうまくできるように工夫してみよう」と切り替えるのがうまくなった。その結果、これまでの自分よりも、うまくできるようになったことが増えた。いいフライが巻けることが増えた。

……やっぱり、書いていて、「いい歳して、やっとかよ!」という声が聞こえる。脳内の誰かがそう吐き捨てる。:-0

とは言え、まあ、そういうこと。苦手な作業だとしても、やりようがある。自分ができるようにやる、自分なりの方法を見いだす。言ってみれば、自分を理解する。そんなことが、フライを巻く作業を楽しくしてくれているように思える。

自分なりのコツをごくざっくりとまとめれば、あえてゆっくりやる、ということだろうか。立ち止まりながら、あるいは自分を俯瞰しながら、やる。……フツーだな :-0

別のことがらにも、この経験が生きている。苦手で、しかしやらなくてはならないことへの抵抗感が減った。なんとかなるのでは、と思えた。急がず、ゆっくりと。

あるいは、丁寧にやることの重要性は知っていながら、せっかちな気質がそれを許さなかったということかもしれない。今は、ゆっくりやるように自分を手なずけることを学んだ。


苦手なことはやらなくてもいい、という話もある。確かに。強みで勝負せよ。

しかし、それが楽しみになるのなら……もちろんそれは寿ぐべきこと、と思ったりする。同時に、いい歳こいて、そんな自分を発見して、世界に適応してみるのも悪くない、などとも思う。

学ぶことが簡単になった世の中だけど、学ぶ機会が奪われているので収支はどうなのか


今の世の中のいろいろなことが、自分のような凡人から学ぶ機会を奪っているような気がする。

例えばリモートワークというやつ。誰かの仕事っぷりを見て、体感して、感心したり学んだりするという経験ができない。

コストパフォーマンスみたいなのも同じ。今はタイパ、といういいかもあるようだけど、いずれにせよ無駄とか、失敗、試行錯誤をする余地とか、奪われている。そういうある種の「もがき」みたいなものから得るものも多いと思うのだが。

会社 or 社会みたいなものも、パフォーマンスを求める。生産性、というのか。もはや錦の御旗。そうなれば、失敗が許されないのももちろん、「遊び」みたいなものが生まれない。遊びの中から偶然に近いかたちで作られる、予期せぬ大きな成果が生まれようがない。小さくまとまってしまう。

世の中のムードとして、失敗に不寛容になってきているようにも思える。SNSには正論が溢れている。スジ、(表面的な)倫理みたいなものに適っていない行動は、よってたかって叩かれる。評論家が沸いてくる。いいことを言った気になってご満悦だ。おめでたい。

つまりは、遊ぶ余地が与えられていない、というところだろうか。

みんな忙しい。稼がないと将来がヤバい。おまけに情報やエンタメや欲しいものやなにやらはすでに飽和している。失敗より、今目の前の、成果。快楽。……そんなムード。



などとうだうだ書いて、自分が失敗とか試行錯誤すること、そういう行為を通じて学ぶということを重んじていることがわかった。

今の世の中、学ぶことがとてもやりやすくなった。そういうコンテンツがあふれている。例えばYouTube。英会話だって、スクールみたいなところに行かなくても、Chat-GPTとできる。そういう意味では、効率は良くなったのかもしれない。

しかし……、そういう、誰かが教えてくれることは、まあいい。でもまた別の種類の学びとして、自分で体得するしかない類いの学びもある。

わかりやすいところで言えば、自転車の乗り方とか。いくら動画を見たり本を読んだりしても、自転車に乗れるようにはならない。自分で、自分の全身を使って学ぶしかない。それには、試行錯誤や失敗がつきものだ。

自転車は体の使い方の話だけれども、脳内メインのことがらでも、似たようなことがある。例えばプレゼンのしかたとか。教科書的なものをいくら読んでも、できないものはできない。最終的には、現場で体験するほかない。そしてうまくいかなかった部分を、次の機会に修正するしかない。

あるいは、教科書通りにやれば良さそうなことでも、そこに書かれていないコツのようなものがあったりもする。パソコンのトラブルシューティングとか、新しいアプリケーションの使い方を学ぶ時に、「検索してもドンズバの情報がない」という経験がある人は多いだろう。自分でどうにかするしかない。そして、どうにかする機会を通して、「このアプリケーションはこういうものだ」という感覚を学んでいく。

卑近な例を挙げたけれども、おそらく、たいていのことがらに、そうした非常に個人的な側面がつきまとう。

つまり、やってみるしかない。やってみて、自分なりに学ぶしかない。そういう種類の学びがある。そして最終的には、それが真の課題だったりする。

だいたい、みんな少しずつ違う脳みそとか身体的条件がある。認知のしかたがある。感覚がある。万人に、いつでも有効な方法はない。

いくら田中角栄がすごい人で、その手法から学ぶところが大きいとしても、しかし、あなたは田中角栄ではない。大谷翔平でもない。チャールズ・シュワルツでもない。そのままやれるわけではない。その人に与えられた条件で、成果みたいなものを作り上げなければならない。多くのビジネス書は、エンタメだ。

あるいは、教科書に書かれていない知恵が極めて重要だったりもする。それはとても個人的なことで、その個人的な部分が、成果につながっている。作家とかアーティストだとか、あるいはユニークな企画でヒットを量産するような人は、そういう個人的な部分で勝負しているのでは。科学研究、みたいな分野も、最終的にはそういうことなんだろうと思う。



ついつい正解を求めてしまう。今、答えが知りたい。と、思ってしまう。しかし……すぐに得られる答えはたいしたことじゃない。その先の、自分なりの答えを作らなければならない。あるいは、自分のトリセツは自分で作るしかない。

 

「めんどくさい……」をどうにかしたいおじさん達の結論

本当に久しぶりに、同級生と会う機会があった。ご健勝で何より。じじいがふたり、このぐらいのトシになると、笑えない出来事があるのも普通なので:-0

その中で、なぜか「あーめんどくせ、なんもしたくね、という状態になったときにどうするか?」という話になった。これがなかなかおもしろかったのでメモしておく。

 

休む、という話を出発点にして、

まず、そんな状態が長く続くようであれば、それは医者に行った方がいい、という話。そこまでいかずとも、やる気がなきゃ休む。それが基本というか、土台。

ただ、休み方もいろいろある。

旅行に行くとか痛飲するとか、そういうアクティブな休みもいい。また、寝るのももちろん大事。

けど、もっとジトっと過ごすのもいいよな、って話になった。例えば、ひとりで家に引きこもって、好きな本をひたすら読むとか。映画とかドラマもいい。内向型の回復方法。

今は家から一歩も出ずとも、ハイクオリティな映像がいくらでも見られる。最近では、『アストリッドとラファエル』というフランスのドラマがよかった(これはNHK)。自閉症の主人公が殺人事件を解決するミステリもの。謎解きもさることながら、もちろんヨーロッパの作品らしく、「人」という要素にもたっぷり踏み込む。

それ以外の欲求も満たしたい。ポテチとかせんべいとか、欲望のままに選んだ食べ物を用意して、あるいはステーキ肉を買い込んでおいて夜の楽しみにして……とかなんとか。ただただ自堕落に、好きなモノだけで固める。贅沢だ。友人氏は、冷凍のフライドポテトを山ほど作るのがいいって言っていた。カロリー……の問題はあるのかもしれないが、マジックポイント回復のためなら、それもいいのではないか?

さらに、朝から風呂、しかも湯船に入る、という話もあった。これは確かに、気分が変わる。温まれば、体が軽くなって、気分も変わる。いつもと違うモードになって、ワーキングメモリもさっぱりすっきり。いずれにせよ、このあたりは皆さんがそれぞれの方法をお持ちだろう。

 

肉体には逆らわない

単にバイオリズムの問題であることもある。クロノタイプ、というのか。一日のなかで、アクティブになる時とそうでない時がある。忙しく過ごしているとわかりづらくなるが、しかし、気を付けていると、自分の傾向がわかってくる。

自分の場合は、朝イチの数時間だけがマシな方で、あとはうだうだ。特に昼頃に、なんにもしたくなくなる。そういうリズムがあるらしく、それに逆らってもうまくいかない。疲れるだけ。体には従うべき、というのが結論。やる気のない時もある、と割り切って、抵抗しない。ムダにあがかない。また後でやる気になる時が来る、と冷静に受け止める。友人氏ははっきり夜型らしい。が、やはり、年齢と共に少し前倒しになってきたという。

クロノタイプは見過ごされがちな気もするが、かなり重要なことなのではないか。自分の状態と、仕事や家族や世の中と折り合いを付けることが、ひとつの生活の柱になるのではないか。

 

でも、問題はそんなことじゃない

そうやって、ある意味能動的に休んだり、調整できたりする時は、じつはそんなに問題じゃない。冒頭に書いた通り、「なにもしたくない」わけで、ポテチを買いに行くのも面倒、という話かもしれない。さらに最悪なことに、今、やらなくてはならないことが山積みなのかもしれない。休んでいる場合ではない。

そんなときのごくごく一般的なアドバイスは、「ちょっとでいいから動け」というものだろう。これも確かに有用だ。万能薬と言っていい。

小さく。1時間じゃなくて、3分だけ。80点を目指すのではなく、30点。100行じゃなくて、3行。全部のパーツに目を通すのではなく、一つだけに着目してみる。小分けにしてみる。

行動をし始めれば、なんとかなる。……というのは、多くの人が体で知っていることだろう。

逆に言えば、仕事も勉強も、やり始めるのが一番難しい。それを乗り越えるための、自分なりのスタートの儀式が必要だ。身の回りを整理するところから始めるとか、らくがきから始める、いったん会議室に閉じこもる……とかなんとか、きっとみなさんがそれぞれの儀式をお持ちだろう。これを強化すべし。明確にすべし。

多少なりとも動く余力があるなら、まずは「課題を書き出す」ところから始める。気になっていることを箇条書きにする。書き出す。そうして「今自分が抱えているボール」を見渡す。一覧性は、いろいろなところで重要だ。これができれば、少し落ち着く。そして「アレ、そんなにたいしたことない……」と思える(かもしれない)。誰かに助けを求めることに思い至るかもしれない。経験則としては、少なくとも、できることがひとつは見つかる。つまり、動き始められる。

 

「わからないから動けない」場合もある

あいまいな話だけれども、どうすればいいのか、これからどうなるのか、わからない。予測がつかない。それが抵抗・障害になる、という話もあった。

例えば、役所に何かの手続きをしに行かなければならない、とか。しょっちゅうやることでもないし、複雑な手続きだったりもする。たいていの人が苦手な作業。こういうのは、行く前には「わからない」ことだと言える。しかも、なにかまずいことになるかもしれないような内容ならなおさら。

逆に、わかっていれば、役所に行って何をすればいいのか、どんな準備をすればいいのかのイメージがつくのなら、動ける。

つまり、「わからないことが、一番怖い」。怖いというのはおおげさかもしれないが、なんらかのリスクみたいなものを感じれば、行動はにぶる。だから何があるかを知るのが大切。ちょっとでいいから、その行動について、調べてみよ。イメージを作ってみよ。幽霊の正体見たり枯れ尾花。

 

さらに、問題──気になり続けていること

あるいは「気になっているけど、片付いていない、片付かないことがある」というのもある、という話もあった。「本当はやりたくない」ことも含まれる。

例えば、もうそう長くはない、父親の墓をどうしよう、とか。そこまでじゃなくても、粗大ゴミに出したいものがあるのだが、予約を入れたりなんだりするのが面倒、とか。単に本棚が片付かず、本が雪崩を起こしている、みたいな卑近な話もそれにあたる。片付けたい、終わらせたいのに、終わらせることができないでぐずぐずしている。

こういうものがあると、行動がにぶる。ほとんど忘れていると思っていたとしても、そういう気になることに脳みそのリソースを奪われる。宿題に足を掴まれ、ずぶずぶと沈んでいく。

こういうものが何かの拍子に片付くと、妙にすっきりさっぱりして、行動力が増す。大掃除をした後の気分、というのがわかりやすいだろうか。引っ越し後、でもいい。

この手のタスクを、都度都度テキパキと進めて、ボールを持たないタイプの人もいる。それはすばらしいことだ。しかし、一見そう見える人も、実はそれなりに何か宿題を抱えていることも多い、というのはある程度の年齢になれば、誰もが気付くことなのではないか。それから逃げるために、何か別のことをしているという一面もあるのではないか。

ガクモン的には、ツァイガルニク効果とかオブシアンキーナー効果とかって言ったりするのかもしれない。ヒトは未完のことが気になり続ける性質がある、というやつ。合理的な思考 or 意識では、気にする必要はないと判断したとしても、しかし、無意識 or 深層心理では気になってしまう。

これが積み重なり、こじれると、にっちもさっちもいかなくなる。本当に「めんどくせ、なんもしたくね」となる。気分とか無意識とかムードとか、御しがたい。度しがたい。意識ではなかなかコントロールできない。かといって無視し続けても、いろいろ支障が出る。侮るべからず、だよな。……とうなずき合った。

その場合の対応方法はあるか? ふたりの間では、結論は出せなかった。普通に考えて、どうあがいても「片付かない」ことはある。例えばペットが病気だ、とか(これは友人氏のリアル)。どうしようもない。

ただ、ヒントになるのは、「気分とは、その時の体で起こっていることを要約したものである」という脳科学の先生による1行。意識できる意識だけではなく、無意識みたいなものや疲れ具合、腹の減り具合、姿勢、気温、他人、空気……等々、いろいろなものを統合して、「気分」になっている。さらには腸内細菌まで、ヒトのムードに影響を及ぼしているらしい。

つまり、「気分」は実体を持つわけではない。素人の乱暴さを承知でこの場合に当てはめてみれば、「そのめんどくささを重く受け止めすぎるな」。ということになるのではないか。

もちろん本当に重大な心配事や、大きな課題は存在する。しかし一方で、確かに、ちょっとしたことで気分は変わる。変わり得る。「めんどくせ」と思っていても、やってみたら思いのほかかんたんだった、ということがほとんどだ。少なくとも、少し長い目で見れば、なんとかなる。

勢いでだらだら書いてしまったけど、「戦うな」とまとめることができるかもしれない。

やらなきゃいけない、と義務感・責任感に苛まれるよりも、自然に動けるようにする。
できてない、と残念に思うよりも、「そのうちできる」と楽観する。
ちょっとだけやってみる。「威力偵察」する。
ムリヤリやるのではなく、「自ずとできる」道を整える。
めんどくさい気分をどうにかしようとするよりも、気分は気分、と軽く捉えて戦わない。

違う表現をすれば「軽くいけ」。じじいになると、重いのが辛くなってくる。芭蕉俳諧の妙諦であるところの、「かろみ」が必要だ。……なんつって(軽く締めてみた)。

アイデアが出なくなったときに思い出す外部足場(仮)

イデアとか発想とかを生み出すこととかについて、今の自分の捉え方を残しておく。

たんなるひらめきを得ることだけではなく、それを元に何かを為すことまで、一連の流れで。先人の助けを借りて、しかし自分にフィットするように。自分にできる範囲で。

全体としては、3段階で捉えている↓↓。

①単純なアイデア発想
②アイデアを発酵/育成/熟成させる装置
③アイデアを試すお砂場


▼①単純なアイデア発想

シンプルな、単独の、ひらめきみたいなもの。その一手で何か解決するタイプのもの。あるいは、複雑難解なテーマだが、一発で「わかった」とか「これだ」と思えるようなアイデア

ひらめき、とはよくわからないものでもある。古くは「三上」、つまりトイレとか馬に乗ってる時とか、そんな時にひらめきやすいという。あるいは課題を脳にロードしたうえでの散歩だったり、夢の中だったり、シャワーだったり。天啓とか、天使が降りてくるとかって言われたり。

その他にも、「アイデアの技法」みたいなものはある。ひらめきを待つのではなく、捕まえに行く。白眉は読書猿『アイデア大全』。

その他、主にこの段階についての読書リスト↓↓

notelets.hatenablog.com

 

原則的なことを言うならば、書いて残すことが重要。
また、やり続ける、考え続ける、求め続けるという原則。
ただ、そうすると思考に「固着」みたいなものが生まれるので、それをはがすことも重要なスキルになる。

最近の本だと、『創造性はどこからやってくるか ――天然表現の世界』がおもしろかった。著者は郡司ペギオ幸夫氏。「外部」と呼ぶ、自分が思いもしなかったものをどう召喚するか、という話。アートという分野で、体験的に哲学する本、と捉えた。

 

▼②アイデアを発酵/育成/熟成させる装置

単純なアイデアの、「その先」が必要なことも多い。シンプルな答えではどうにもならないもの。
複雑な問題や情報をどうにかする、新たな視点を得る、熟成させる、などと言ってもいい。この段階を経て、①の単純なアイデア発想 が得られる、というループ構造でもある。

これには、なんらかの「アイデアファーム」「自家菜園」のようなものが必要だ。つまり、アイデアを保管し、いじったり面倒を見たりして、発展させていく場。頭の中だけでいける場合もあるが、そうでないことのほうが多い。

いろいろな人がそういうことを言っている。古くは梅棹忠夫ニクラス・ルーマンのカード方式 or ツェッテルカステン。また外山滋比古の「メタ・ノート」。同じようなことをしている人は多いだろう。システムに名付けずとも、自ずと「そうなっている」ことも多い。清水幾多郎は、カードにどうしてもなじめず、ノートを使っていたという。自己分析として、「主観」が自身の基軸になっているからかも、と述べていた。ノートは主観となじむ。逆に客観が重要な時は、カードが有効だろうと。

確か千葉雅也氏も、「自家菜園」に近いようなコトバを使っていた。自分にとって大事なテーマを耕していく場、アイデアの成長を促す場。そういうものを持っておくことを勧めていた。あるいは、この上なく魅力的なタイトルの『積読こそが完全な読書術である』では、「ビオトープ」というコンセプトで、近しいことを提唱していた。

 

技術的にいえば、例えばEvernoteのような、メモを蓄積しておける場。ノートツール。ソフトウェア。PKMと言ったりもするか。NotionとかObsidianとか、RoamResearchとか。

個人的には、未だ検討中だが、Evernoteを引き続き使っている。そのためのフォルダを作って、課題や気になること、アイデアのタネ、インスパイアされたもの……等々を突っ込んでいる、そこを眺める、いじる。

ただそれだけのことだが、ストレスなくやるには、結構、「実際」が問題になるように思える。細かなディティールというか。その場に不安なりストレスなりがあると、そこに行くことすら嫌になってしまう。自分なりの、ストレスのないカタを模索するほかない。梅棹が言うところの、「精神衛生」の問題。信頼できる「場」「システム」があるかどうか。

最近の本では、『リサーチのはじめかた ――「きみの問い」を見つけ、育て、伝える方法』が良さそうだ。「頭の使い方」というか、ソフトスキルというか、そういう方向性。

 

 


▼③アイデアを試すプレイフィールドサンドボックス

イデアの善し悪しは、判断できない。判断できるものは、たいしたアイデアではない、とも言えるかもしれない。
だから試す。……ということについては↓↓

notelets.hatenablog.com

 

「問題解決」というテーマにもつながってくる。容易に試せないものももちろん多いし、人様が関わることもある。一筋縄ではいかないけれども。



実際には、この3段階はループしていたり、入りくんでいたり、混沌としていたりする。またぐだぐだな段階は避けられないというか、それがデフォルト。……というか今まさにそういう感じ。なので整理してみた由。

 

安い方のAirPodsが好きだという話

しばらく使っていたAirPods(第2世代)のバッテリーが死んだ。

発表の少し後に買った記憶がある。ということは、もう4年以上使っていることになる。みなさんの声を聞いてみると、そのぐらいが寿命らしい。左だけ、20分ぐらいで♪ポンポロリンみたいな音がして切れる。見ると、ついさっきまで96%となっていたのが唐突に0%になっている。何度リセットをかけても変わらない。

代役を探しながら、改めて、AirPodsはとても手に馴染んでいたというか、体 or 無意識が選んでいたことに思い至った。いい道具だった。なくしてわかるありがたさ、親と健康とAirPods


今、市場ではカナル型が本命なんだろう。耳穴にねじ込むタイプ。無印AirPodsのような、ねじ込まず引っかけるように装着するタイプは本当に数少ない。もちろん電車とかうるさいところでは耳栓が良いのは理解している。しかしそれでも、なぜAirPodsタイプが少ないのか、不思議に思える。

個人的には、AirPodsは、つけていることも忘れている。そのくらい装着感がいい。いいというか、気にならない。しかも、耳をふさがないので、外の音も、自分がしゃべる声も、自然に聞こえる。

カナル型だと、どうしても異物感が拭えない。耳穴に何かを突っ込んでいるわけだから、そりゃそうだ。これまで有線時代にもこのタイプをいろいろ使ってきたわけだから、改めて言うのもおかしな話ではある。が、今、これがとても気になる。

というのも、たぶん、コロナからこっち、静かなところでイヤホンを付けることが増えたからだろう。移動が減り、オンライン会議が増えた。トータルの使用時間も増えた。また、家でもオフィスでも、外の音をシャットアウトするのはあまり気持ちよくない。

結局、付け心地が負担にならず、かつ外の音が自然に聞こえること。それがとても重要になってきている(SONYの穴が空いたやつとか、骨伝導とか、あの手のタイプがちらほら目に付くのも、また外音取り込みの機能を持ったモデルが増えているのも、おそらく同じニーズなのでは)。

 


AirPodsには他にも良い点がある(と言っても、もはやそれが普通になってきている)。

ケースから出す、収めるという動作が電源&接続に直結していること。Bluetoothは接続されているのか切れているのか、直観的にはわからない。「アレ、音が出ない」と思ったら隣の部屋でヘッドホンで鳴っていた、みたいなことがない。つながっていると思って再生したらMac本体から出てちょっと気恥ずかしい、みたいなこともない。TWSというのか、この完全ワイヤレスのイヤホンを発明した人はすごい。もちろんこれはTWS全般の話だけど、AirPodsは接続が素早く、トラブルがないのが素晴らしい。

耳から外せば音楽が止まる、というのもいい。そして付け直せばまた再生が始まる。これは、個人的には「そうあって欲しい」挙動だ。

MaciPhoneで自然に切り替わるのもいい。というかAppleのデバイスで。完全、ではないものの、相当に気にせずに切り替えてくれる。

こちらがしゃべる時、相手にもよく聞こえているようだ。どんな音が届いているかは当人はいっさいわからなないから、安心感みたいなものが重要。

まとめれば、何も意識しなくてOK、自然に、直観的に。何かを不安に思うこともない。そんなことのように思える。

Appleらしい、と言えるのかもしれない。Appleが目指しているモノは、そういうものだと思っている。世はカナル型がメインストリームだけど、無印AirPodsをかたくなにラインナップの中心に据えているのも、なんとなく理解できる。妄想かもしれないけど。

 

そういえば、こんなの↓も書いていた。


お高い方、耳栓タイプのProの方も、ずいぶんいいらしい。中間クラスの耳栓イヤホンはすでに持っているのだけれど、例えば飛行機に何時間も乗ることになった時にでも、Proも買おうかな、などと思っている。が、3年ぐらいでバッテリーがダメになるのだとすれば……、4万円というのは高い気もする。

今のイヤホンの悲しいところは、このバッテリー問題だろうか。今の電子系デバイス全般がそうなのかもしれないけど。有線時代もケーブルが切れるとかあったけど。長く使うことができ、愛機と呼べるものが欲しい。そんな気もする。

アイデアのその先問題 と 対策の素朴理論


仕事を構成する要素として、「アイデア」というのがある。発想というか。

起業のネタを思いつくのもアイデアだし、今この目の前にあるメールにどんな返信をするかもアイデア。だから「クリエイティブ」という名詞で呼ばれる職種じゃなくても、また事務的な作業をしていても、アイデアが仕事の核心にあるようにも思える。

とは言えやはり、アイデアを出す時には、「普通じゃない」ことが求められる。ぱっと思いつくもので事足りるならば、問題にならない。普通ではないことは、もちろん難易度が上がる。

しかし、難しいけれども、方法がないわけではない。いろいろ方法論がある。助けてくれる。そういう書物も多い。

イデアを選ぶこと

しかし実のところ、本当に難しいのは、そのアイデアの取捨選択だろう。

あかん😞 、なケース↓

  • ついつい無難なものを選んで、ちょぼちょぼの成果で終わってしまう。
  • やりやすいところから手を付けて、核心の周りをぐるぐるしているだけ。
  • そのアイデアの実現がタイヘン過ぎるので、無意識に避けてしまう。
  • それまでと同じ価値観で選択して、問題の核心を解決できない。
  • 変革を生みそうなアイデアだとしても、ネガティブ要素が見えてハナから捨ててしまう。
  • そもそも、これまでの価値観や判断基準に沿ったアイデアしか出さない、というのもありうるけれども。

言い換えれば、自分の(あるいは組織の)枠を超えられない、ということになる。これが、アイデアの選択という課題の深層に横たわっている。

「良さそうだ」と思いやすいものは、馴染みがあるものだ。「できる」と言うのも同じ。馴染みがあるということは、自分の枠の中にあるもの。それで成果が出るならば良い。しかし、もしそうでないならば?

固着・固定観念・暗黙の前提・価値観……を退ける

枠の中にあるものは、もしかしたら凝り固まった価値観かもしれない。固着しているかもしれない。解決して本当にインパクトがある問題、つまり長らく解決できねいでいる問題は、そうした固着が原因になっていたりする。暗黙の前提が邪魔をしている、とも言える。

例えばインターネットの歴史は、そうした固まった価値観を壊してきた歴史だと言えそうだ。自分もずっと見てきたので、本当にそう思う。

その昔の感覚では、試着もせずに靴や服を買うなんて、ちょっと考えられなかった。スマートフォンで見開きのマンガを読むとか、クルマを買うとか、YouTubeが憧れの職業を生み出すとか……、いろいろ。「それはないんじゃない」ということがふつうになっていった。

インターネッツは新技術がベースにあるが、そんなことがなくても、暗黙の前提は打ち破られる。先日メガネを新調した話を書いたけれども、これなんかはまさにそう。「メガネは視力がちゃんと出るものを作る」という思い込みが覆されたら、いろいろGoodな生活があったという話。この場合は、単に自分が無知だっただけで、かつ卑近な例で恐縮だけど、でもきっと、みなさん「なんで今までこうしなかったのだろう」という経験はおありだろう。

だから、威力偵察するしかない。単純に、いろいろ試していく。そんなふうに思っている。

もちろん、思いついたアイデアをテストしていくのには、時間も金もかかる。望ましくないことが起きることもあるだろう。だから、テストのための対策が必要になる。できるだけ手軽に試すとか、失敗をケアしておくとか、そういうこと。

言い換えれば、アイデアとは、行動する技術である。そんな風にも言える。失敗を無意味にする技術、と言った方がよいか。もっとも、これは少しニブい自分だからかもしれない。頭の良い人は、うまくいいアイデアをより分けられるのかもしれない。

別の課題もある

あるいは、起業ネタだとしてもメールの返信だとしても、「おのずとそうなる」こともある。アイデアを捻るというよりは、自然と対策が導き出される場合。

個人的に、コンサルティング的な仕事をする時によくありがち。顧客のことを知って、いろいろ調べて、素材を挙げてみると、「だったらこうすりゃいいじゃん」というのが自然に浮かんでくる。だいたいそれは「正しい」というか、合理的・論理的な帰結だったりもして、受け入れられやすい。これはこれでアリ。

しかし、これが危険、とも思っている。

合理的な結論とは、ある意味、誰が考えてもそうなる、ということでもある。それは、つまらない考えだと言えるかもしれない。モノゴトを整理するのがコンサルの仕事だ、と言った人がいたが、確かにそうだろうけれども、それだけでは済まない問題もある。

だからそこで踏みとどまって、別の可能性を探る。いつもそうしている。それに、自分はコンサルというよりはクリエイション側の人間。求められているのは合理性だけではないだろう。とも思う。

老眼でも快適なデスクワークをするための対応 - ある凡人のケース

近頃、目が疲れやすいと感じていた。本を読むのが続かない。すぐにイヤになる。

当方、近眼・老眼。メガネを外すと、あまり快適に読めない。メガネをすると、今度は老眼がジャマをする。もちろん老眼鏡をするだけでは何も見えない(近眼とはそういうもの)。詰んでる。

基本、いろいろニブい人間なので、それでもボンヤリ過ごしていた。

しかし、ある日、近眼老眼仲間が遠近両用のメガネを作ったと言っていたことに思い至った。ああそう、そうか、そういうものがあったら、いろいろラクになるかもしれない。

ということで、近所のメガネ屋さんに行って、冒頭のようなことを、絶対に老眼など縁がないであろうさわやかな青年に熱く訴えてみた。

青年曰く、

遠近両用、もしくは中近両用というのがありますが、
便利だけど、ちょっと慣れが必要です。
歪んだり、良く見える視界が狭くなったりします。

とのこと。やっぱ詰んでるのか……?

▾ 度が弱いメガネを作る、という対策

しかし、めげずに、青年とさらに話して、結果、「度が弱い普通の近眼用メガネ」を作ることになった。

そういう対処法があるらしい。度の弱さが老眼を打ち消し、近めをラクに見られるらしい。

もちろん、例えばクルマの運転などはできない。しかし、遠近両用の扱いづらさもなく、本を読むのは自然かつラクにできる。室内、普通の部屋を想定すれば、そんなに遠くを見る必要もないだろうから、日常生活は普通にできる。言い換えれば、外に出るときのメガネと、読み用の弱いメガネの2本立て。

近眼生活は長いが、そういう方法があることなどまったく意識をしていなかった。老いるとは、初めてのことばかり。

▾ メガネの2本立て体制の結果(暫定)

で、その弱いメガネをするようになってしばらく経った。

全体的な感想としては、とても快適。

紙の本は疲れなくなった。ストレスなし。
スマートフォンは、もともとできればあまり見たくないタイプだが、見るとなったら快適。
iPadは、昔から、真剣に読むと疲れたけれども、気持ち、ラクになったように思える。
MacBook本体のモニタ、また外付けの大きなモニタも快適。

ひと言で言えば、デスクワーク全般が、その昔と同じようにストレスのないものとなったと断言できる。

また、紙とモニタの行き来もスムーズになった。通常、机の上に、書類とか本とか、つまり紙を置いていることも多いと思う。その距離は、モニタよりも近い。そのわずかな位置が影響する。老眼の人はわかってくれると思うけど、モニタは老眼の影響なく見られるが、机の上の書類は見づらい、みたいなことが起きる。これがなくなった。ナイス。

また、想定していなかった変化もある。近めをラクに見られるようになって、画面の文字サイズを小さくすることができるようになった。つまり、同じ面積なら、より多くの情報を表示して、一望できるようになった。これは作業効率的にプラス。いいね。

さらに言えば、Macで、「その時に快適な文字サイズに調整するショートカット」を使いこなせるようになった。いや、ただのCommand+「+」or「ー」に過ぎないけれど、これで一覧性を高めたり、長文をちょうどいい文字サイズで読み込むことができたり、つまり最適な状態を作ることができるようになった。これまで、そういうことにアタマが向かなかった。

ということで、今のところいいことずくめ。メガネを掛け替えるのはたしかに面倒だが、まあ、メリハリがついていいんじゃないか。そんな感触もある。また、「室内用と外用」という想定ではあったけど、例えば遠目のテレビを見る時は、ちょっと度が弱い。よって「デスクワーク用と通常用」という2本立てになったが、これも別に問題ない。長時間でなければ、Macも本も外用のメガネでいけるし。

さわやか青年、ありがとう。

こんなことは、知っている人にとっては当たり前過ぎてあえて誰かに話すようなことでもないのだろう。

しかし老い初級者である筆者にとっては目からうろこが落ちる思い。ということで、こうして書き残してみた。どなたにでも通用する話でもないだろうと思うので、ご参考まで。

多分、老いるということは、こんなことが他にも起こりうるということなのだろう。年齢をことさらに意識することはないけれど、現実として、少なくとも肉体的にはアレコレ起きる。これをうまいこといなして、付き合っていかなければならない。そういえばその昔、たまたま縁がある一流衣装デザイナーが、エレガントとは言えないガチのランニングシューズを履いていて「アレっ?」と思ったことがあった。足の不具合ゆえのことだと言っていた。そういうことなのだろう。

場合によっては、そんな何かがきっかえになって、新しい世界が開けるかもしれない。それも楽しみのひとつ。とも言えるかもしれない。多少の強がりを含め :-)