Googleカレンダーとノートの間に(紙の)手帳を挟む
手帳のフォーマットを変えた。
縦に時間軸がついた、いわゆるバーチカルから、古典的レフトタイプへ。
理由は単純で、バーチカルはどうにも「書きづらい」感じが強くなってきたから。時間軸がきっちり立っているあの形式は、予定を書くには向いているけれど、予定以外のものが入り込む余地がほとんどない。せいぜい、単語をひとつ、ふたつ書くくらいが限界。いや、限界ということもないのだけれども、なんとなく、フォーマットにそんなふうに導かれる。
一方、レフトは、なんとなく懐が深そう。左ページに日付と簡単な枠があり、右ページには自由に使えるメモ欄がある。ここなら、予定以外のことも書けるのではないか。そんな期待。どっちがいいとかじゃなくて、自分がそんな風に変化してきた、ということだろう。
そもそも、予定の「正本」はGoogleカレンダーにある。アポイントや締切、会議の時間。そういったものは、デジタルの方が扱いやすい。通知も飛ぶし、検索もできる。これはもう、疑いようがない。
けれど、予定以外のことはどうだろう。たとえば、行動の記録。今日は英語をどれくらいやったか、とか。
あるいはたとえば、私的な目標管理。今週はこれをやってみよう、というような、あいまいな決意。
あるいは、日誌的なもの。その日に何を考えていたか、なぜ気分が重かったのか、どうでもいいようで、あとから見ると気になる断片。
そうしたものは、バーチカルの枠にはどうも収まりが悪い。バーチカルは「メモを書く」ために設計されていない。時間を管理するための道具なのだ。
レフトタイプは、その点、なんやかんや書く前提でできている。右ページのメモエリアも含めて、「考えが横に広がる」余地がある。
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……と、ここまで考えて、ふと疑問が湧いた。俺はそれほど意識が高い人間だっただろうか、と。
正直に言えば、目標管理など、ちゃんとできた試しがない。基本的には、なんとなく生きている。流れに乗ったり、逆らったり、その場しのぎでやってきた。
それでも手帳を使っているということは、何かを少しはマシにしたい、と思っているのだろう。ただ、それは「実行できる目標」への意欲というより、憧れに近いものかもしれない。絵に描いた餅、というやつ。
とはいえ、紙の手帳にまったく意味がないとも思えない。たとえば、朝、手帳を開いてひと月や一週間を見渡すと、なんとなく安心する。
「ああ、企画案出し、金曜までか。じゃあ明日の午前中にやるか」
「来月、確定申告の準備、そろそろ始めないと」
「今週は……ヘーゲルに取り組んでみる週間だったな(ぜんぜんわからんけど)」
そんなふうに、予定と関心事とが、ゆるく同じ視界に入る。身の回りのことが、雑多なまま、しかし一応は整理される。紙という有限の世界だからこそ、という感じがある。
予定だけを書いたGoogleカレンダーには、この感じがない。あそこには「何時に何があるか」しか載っていない。余白がないぶん、安心もない。
紙と向き合う時間には、邪魔が入らない。通知も飛ばないし、別のタブを開く誘惑もない。その静けさの中で、少し整った、という感覚が生まれる。
もちろん、すべてをタスクとして扱い、関心事も迷いも全部Googleカレンダーに入れる、というやり方もある。理屈の上では、かなり合理的だ。けれど、どうにも気が進まない。仕事で他人のカレンダーを見ることがあると思うけど、忙しいIT戦士たちの予定がびっしり埋まっているものを見ると、率直に「大変そうだな」と思ってしまう。空白が欲しい。
少しポエムっぽく言えば、こんな整理になる。
未来をGoogleカレンダーで扱い、
過去をObsidianで扱い、
現在を手帳で扱う。
未来の予定は、Googleカレンダー。過去に読んだもの、考えたこと、仕事の記録は、ObsidianやNotionのようなノートに蓄積されていく。これはわかりやすい。
しかし、そのあいだにある「今」は、意外と居場所がない。今のこの心を、どう向けているのか。何に引っかかっていて、どこに向かおうとしているのか。手帳は、その「今」を扱う場所と捉えることもできる。
整える、というのは、単にきれいにすることではない。
未来の展望と、
心の向き、つまりコンパスと、
今につながる過去の経緯とが、
それなりに納得のいく配置に収まること。そんな感じがある。
まあ、そんなわけで、紙の手帳というものは、あっても悪くない。
劇的に人生が変わるわけではないが、朝(夜でもいいし)に少し安心できるなら、それで十分なのかもしれない。
Obsidianと「白紙効果」

自分の中で、「白紙効果」と呼んでいる現象がある。単純に言えば、子供の頃の「新しいノートを買ってもらうと、何か書きたくなる」みたいなこと。
大人になってからも、その気持ちはある。新しいノートブック、Mac、スマートフォン……何か心機一転すると、ちょっとやる気が出る。……もちろん、長続きはしないけど😅
あるいは、例えばObsidianで、新しいノートを開く、白紙の状態から何か書き始める、というのも、近しい効果がある。
通常、メモの類をObsidianに書く時、デイリーノートというか、「その日のノート」に書く流れになっている。
しかし、なんとなく、書き始められない。ノらない。そんな時に、新たに新しいノートを作る。
重症だと、Obsidianに書くことに抵抗を覚えたりもする。そんな時は、テキストエディタを開く。今はCotEditor。ただ1枚のシンプルな画面で、フリーライティングというか、ばーっと心の重荷を吐き出すような作業をしたりする。
この心理がなにものなのか、根本はどこにあるかと考えると、やっぱりこれまでのいろいろが残されたObsidianのVaultがうっとうしい。ということになる。「白紙」にはそういうものがない。ゼロから始まるわけだから、軽々としている。無限の可能性がある。
さらに遡れば、自分の中にある完璧主義的な気持ちが、邪魔をするのかもしれない。不完全な過去がチラチラする、みたいな。そもそもタイプとしてはぜんぜん完璧主義じゃない、むしろテキトー部族だと自認しているのだが、時々、あるいはテーマによって、そういう衝動が起こるのがおもしろいところ。
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ふだんの生活の中でも、そういうことはある。
大掃除してスッキリ、みたいなことは、誰しも経験があるだろう。大がかりになると、引っ越し、というのもある。逆に小さな掃除・片付けでもいい。洗面台を掃除する、とか。
捨てる、というのもある。自分の場合の常の課題は、本棚。人並みの小さな家、本棚では、スキマを作るのに苦労する。しかし一念発起して、それかあえてなんとなくはじめて、なんとか新しい本が入る余地を作る。そうすると、新しい本を買うことに、また読むことに、ちょっとやる気が出る。
捨てること、片付けることがブームになったりしたと思うけど、それもこのすっきり→やる気出るということをみなさんが経験しているということだろう。単純に言えば、捨てるのは楽しい。そして新しいものを得ることも。
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逆に言えば、モノがあるということは、自分に制限をかけるという側面がある、ということだろう。これは避けられない。それが人生。だから時々、旅に出る。重症だと、漂泊の人生を送る。
ただ、擬似的にというか、一時的にそういうことを作る、これをテクニック的に使うこともできる。あるいは、生活の中にこの白紙効果を組み込むこともできる。
言い換えれば、白紙効果とは、過去の痕跡を一度遮断することで、心理的な“軽さ”が生まれる現象だ。
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大げさに言えば、生まれ変わり効果、でもある。
ひとり暮らしを始めるとか転職するとかすると、一応、過去が清算される。ある種の生まれ変わり。
あるいは昔の元服の儀式とか、大人になると名前を変える風習とか、生まれ変わりが、生活の中に取り込まれていたりもしたのだと思う。出家、とかね。
天命とか困った時とかハーバート・サイモンとかスヌーピーとかなんとか

「五十にして天命を知る」と言う。
いわゆる「弱冠」とか「不惑」とかの言葉のもとになった、昔の中国のえらい人の言。
"改訂新版 世界大百科事典「天命」の意味・わかりやすい解説
天命 (てんめい)
運命をいう。原義は天の神の命令という意味であったが,天の命令は人力ではいかんともしがたいものであるところから,人間の外にあって,人間のあり方を規定する力を意味するようになった。しかし〈使命〉の意味に解することがある。天命に〈運命〉と〈使命〉の2義が含まれているため,《論語》の〈五十にして天命を知る〉の天命は,運命(自分にはこれだけしかできない)なのか,使命(これだけはどうしてもしなければならない)なのか,解釈が分かれている。"
若い時は「そんなもんか」と気にとめなかったけど、ある程度トシをくってくると、なんとなくその重みがわかってくる。
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どういうことかと言えば、まあ、「己を知る」ということ。
若いうちは、自分がどういう人間なのか、よくわからない(私は今もわからないのだけれども)。しかし、世に住んでいると、どうしたって他の人との違いが見えてくる。
「あの人はどうしてあんなことができるのか」とうらやんでみたり、あるいは「あの人のようにならなくてよかった」なんてみみっちく救われた気分になることもある。
しかし、自分も、そして羨ましい人もなんだかかな、な人も、いいと思えるところも悪いところも、紙一重というか、与えられた条件の中でみなさん頑張っている、という理解になってくる。
「いや、俺は努力でここまで上り詰めた」という人もいるだろう。それはすばらしい。
しかし、ヒトは与えられたもののうちで、なんとかやりくりしていく他ない。……という実感が、年々強くなっていく。
自分を受け入れる、と言い換えることもできるかもしれない。
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もう一度引用すると、私の上記のような理解は、「運命」なのだろう。「使命」という解釈があるのもわかるが、私の場合はこれは実感が伴わない。
"天命に〈運命〉と〈使命〉の2義が含まれているため,《論語》の〈五十にして天命を知る〉の天命は,運命(自分にはこれだけしかできない)なのか,使命(これだけはどうしてもしなければならない)なのか,解釈が分かれている。"
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「これだけしかできない」なのだとしても、学んだり理解したり成長したりということを否定するつもりはない。単純に「♪ありのままで〜」などと言うつもりもない。そんな生き方は、むしろかなりの困難を伴う。特に若いうちは、いろいろでたらめに試して、そこから、己などというものを学んでいくプロセスが欠かせないのだろうと思う。
そしてそのうえで、自分がどんなヒトであろうとも、結局は世の中との折り合いを付けていかなければならない。そして当然だけど、唯一の正解などない。その道を見つけるのも、でたらめから学ばなくてはならない。
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別の観点から見てみる。
ハーバート・サイモンというノーベル賞を取ったえらい人は、人間の合理性は限定されている、と宣言した。だから意思決定とは、最善の解を探すのではなく、良いと思われるものを試していくプロセスだと言った(意訳)。
あるいは、「Q-model」という概念もあるらしい。学術の世界の論文の「質」みたいなものは、もちろん書き手の能力にもよるけど、結局は試行回数=量が左右する。これは統計的な結論らしい(意訳2)。
私にはこれらの正誤を判断する能力はない。しかし実感にはぴったりくる。「でたらめ」を繰り返すと書いてしまったけど、十分に良いと思われる解を出し続ける、のが社会的に正しい態度かもしれない。
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もう少し広げると、日々是好日、ということになるかもしれない。
つまり、良いも悪いも受け入れる、ということ。元々は禅語であるから、毎日、修行にいい日だということ。「ほんわかムードでお茶でもする優雅な生活」ということではない(それはそれでいいのだけれど)。
うまくいくことも、困難に陥ることもあるだろうが、それはそれとして受け入れて、また何ごとかを為す。一喜一憂せず、やれることをやっていく。
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「配られたカードで勝負するしかないのさ。それがどんな手であっても」
……というのは、かのスヌーピーの作中コメント。『PEANUT』を描いたシュルツさんは、毎日毎日マンガを書くというところで勝負した、のだろうと思う。
Obsidianの使い方or運用方法 - 今の「だいたいこんな感じでOK」のメモ 抽象Ver.

Obsidianをしばらく使ってきた。1年半ぐらいか。今のところの大枠をメモしておく。
こういう、ノートテイキングの仕組みは、ちゃんとやろうとすると、悩んでしまいやすい。迷走しやすい。NotionでもEvernoteでも同じようなものだ。ただ、今のところ、Obsidianは手に馴染んでいる感じがある。
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いちばん大事なのは、「眺める、いじる」ことなのだろうと思っている。
書いたものは、まずはInboxフォルダに入る。
少ししたらInboxを眺めて、今相手にするネタなら、Activeフォルダに入れる。
さらに、そのActiveを眺めて、自分の中で終わったネタなら、Archiveフォルダに移しておく。
時々、Activeフォルダが長過ぎるリストになって、なんとなく整理がついていない気持ちになったりする。その場合は、きっと「まとめ」られる。上位の概念でくくることができる。目次的なノートを作って、そこからリンクを貼る。つまり、目次ノートがActiveフォルダにあって、下位概念のノートはArchiveフォルダにある。
Archiveフォルダは、だいたいすべてのノートが放り込まれている。細かなフォルダ分けはしていない。小分けし過ぎると、むしろ扱いづらくなる。
つまり、基本的なフォルダは3つしかない。
①Inbox……とりあえず入れておくところ
②Active……今、相手にしているもの
③Archive……終わったもの
ただこれだと、ノートを引っ張り出す時に難しくなることもある。よって、少し工夫をする。
まずは前述の目次ノート。自分の中では「MoC」、Map of Contentsという呼び名になっている。
あるいは、タグという仕組みもある。ただ、きっちりやろうとするとなかなか難しい。その本質からして、柔軟性が高いので。よって、タグはあまり増やしすぎないようにしている。
特に重要なのは「Seed」タグ。これは、「なんだかよくわからないけど、可能性を感じる」ネタにつける。逆に言えば、「どこに入れたらいいかわからない」ネタ。
そういう性質のノートを、なにもヒモづけしないで、つまりタグやMoCからのリンクなどをつけないでArchiveに入れてしまうと、そのまま埋もれてしまう。だからSeedタグを付けて、そしてタグがついたノートを一覧できるページを作っておいて、時々眺める(Dataviewを使う)。
ただ、これは精神衛生上の処理、と言えるかもしれない。埋もれさせていない、取り出せる、また見る機会がある、というある種の安心感のため。実効性があるかどうか、いまひとつわからない。
あるいは、だいたいすべて、と書いたけれども、明らかにフォルダ分けしていいものもある。例えばもし英語の勉強を長いこと続けているならば、英語学習用のフォルダを作っておく。でも、例えば、読書フォルダを作ったとしたら、しかしそのノートは、おそらく仕事や趣味、生活自体にも関連する。すっきりとした分類ができない。コウモリは鳥なのか哺乳類なのか、みたいな問題が発生する(鳥ではないけど)。つまり、粒度が細かすぎることになる。このあたりのあんばいを考える必要はある。
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と、まあだいたいそんな感じで、「眺める、いじる」。
ノートを見て、リンクを付けたりタグを付けたりすることで、何かObsidianが使えているという手応えみたいなものが生まれる。あるいは、自分が書いたものを見て、新たな発想が湧いてくることもある。
違う言い方をすれば、「庭」のようなものだと言えるかもしれない。庭をブラブラして、眺めて、何かに気付いたり思ったりして、「この花はあっちに移したほうが映えそう」とか「こいつはもっと日当たりのいいところに移そうか」などと考え、いじる。
相手が生き物だと、こちらの思い通りにはならない。また時間もかかる。そういう面も、考えるということに似ているかもしれない。「設計」モデルではなく、「グローイング」モデル。
もっといろいろ、テクニックのようなものはあるのだと思う。けれど、残念ながら私はそれほどマメではない。シンプルに保った方が、身の丈に合っている😂
老害、あるいは忘れ去られること

ちかごろ、若い人たちと仕事をしている。で、なんというか、コミュニケーションに気を使う自分がいる。
皆さん、デキる人たち。自分などが何か言いたいわけでもない。しかし、上の方の人からは、自分が持っている何かを伝えることも期待されているらしい。
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そのお役目のことを思うと、時々、フと見かけた、釣り女子YouTube動画へのコメントを思い出してしまう。
フライフィッシングというマニアックな釣りに挑戦している、若い女性。釣りの動作の中では一番難しいかもしれない、フライキャスティングに取り組んでいる(長い糸を空中で振り回すアレ)。
そんな動画に、「そんなんではダメ、もっとこうしないと」とコメントを付けるじじい(多分。フライフィッシングの世界は、じじい8割)。
……なんと言うか、見ているこちらとしては、「うるせーよ」と言いたくなる。誰も求めていないアドバイス。しかも上から、ダメ出し付きで。お寒い、としか言いようがない。そういう景色を、SNS時代になってから良く見るようになった。
あるいは、自分が若かったときのことも思い出す。だいぶ年上の人に何か言われ、なぜそんなことを言うのかまったく理解できなかったり。「ご高説確かに承りました」という態度で、しかし完全にスルーしていたり。単に「シン食ってねえな」と解釈したり。
となると、「知識は伝わらない」というシンプルな言葉も思い出す。
言葉で知識を伝えようと思っても、伝わらない。伝わったと思えた時は、受け手がすでに知っていることだったからに過ぎない。
認知科学とか発達心理学とかって世界では、大筋でそういうことになっているらしい。言い換えれば、知識は自分で作り上げなくてはならない。
* このあたりのことは、例えば↓
『私たちはどう学んでいるのか ――創発から見る認知の変化』
自分の体感としても、そう思う。さらに言えば、年上の人が言うことを素直に聞くタイプでもなかった。
◆
つまりどういうことかと言えば、ええと、
求められていないことを言ってないか。
言っても伝わらないのではないか。
だとすれば、何を言う / 言わないでおくべきだろうか。
……みたいなことになるか。そんなことが、頭をかすめる。
別に迎合したいとか媚びたいとか、そういうことではない。単に、その場にいるのならば、有効でありたい。となれば、どうしたらいいか。
その若い人たちが成長することを第一に考えるならば、「やってみなはれ」ということになるのだと思う。最終的には、ヒトは経験から学ぶ。そして自ら知識を作り上げる。それをサポートするのが美しい姿か、とも思う(そういうことを言うと、「あの人は教えてくれない」と言われそう 😮 )。
言い換えれば、「あの人からは多くを教わった」と言われるよりも、むしろ忘れ去られるぐらいが理想。自分で学んだ、という手応え。
……とかっていう話は、自分が何かしらの伝える価値があることを持っているのが前提になる。そう判断されたからその場にいるのだろうけれど、自分としてははなはだ自信がない。そもそもこのご時世、何が「正しい」のかよくわからない。
むしろ、自分が学ぶことが多いかもしれない。じじいの硬くなったアタマに刺激を与えてくれるかもしれない。そんなことも思う。
有効なところは盗みたい。仕事の中で、対話の中で、じじいを新しいところに連れて行って欲しい。そのくらい強力な若い人を、心待ちにしているフシもある。
本棚に空きを作る

本棚に空きスペースがあると、ちょっと嬉しくなる。
本があれば幸せ、というわけではないものの、でもまあたいていいつも、本棚はすでに飽和している。本棚以外にも、床に積みっぱなしになっていたりする。広い家に住めない、あるいは整理の悪い自分の至らぬ点なのは、認めざるを得ない。
そうなると、本を読むモチベーションが下がる。本を買うときも、「買わない」という選択をすることが増えるように思える。結果、つまらない。多ければいい、というものでもないけれども、ある程度の量を自分にくぐらせるのは重要だ。
とは言え時々、なにかのきっかけで本棚に少しスペースを作れる時がある。ひとコマ、あるいは1段の半分くらい、空の場所ができる。
そうなると、がぜんやる気が出てくる。ここに何を収めようかと、本探しに熱が入る。今すぐにでも書店に行こうかという気になってくる。何か新しいテーマに取り組もうかという気になってくる。
そこまでいかずとも、今、読んでいる本だとか、関わっているテーマの本たち、またこれから読もうと思っている本なんかをまとめた小山を作る時もある。これもなんだか嬉しいというか頼もしいというか、ちょっとやる気になる。
しかし、それも長くは続かない。すぐに本が増え、あふれ出して、また混沌に飲み込まれる。その本たちをきちんと消化し、すっぱり整理し、別の場所に移すなりして、また空きスペースを作れればいいのだけれど、でも実際は、本が澱のように沈殿し、もとの状態に戻ってしまう。新しいものが入る余地が失われてしまう。コンピュータで言えば、メモリが過去の作業にまつわるガラクタで占領されている、といったところか。単にワーキングメモリが掃除されてない、と言ったほうがいいか。
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いつからか、その、たまたま作れる空きスペースを、心の中で「今の棚」と呼ぶようになった。本棚全体の整理は諦めるにしても、その「今の棚」だけは絶対に整理しておこう。その一部分だけなら、自分にも整理できる。維持できる。そんなスペースがあれば、本との付き合いを楽しく保てる。
……と、そんなことを言い聞かせて、その「今の棚」を確保し続けるようになった。
例えば、読もうと思った本が、読めずにそこに居座ることがある。よくあるパターンとしては、『三体』とか京極夏彦の新刊とか、「好きで、読みたいんだけどちょっと重たい」小説(もう読んだけど)。自分の気分として、小説は後回しになりやすい。読まなくてはいけないものではない。また、ちびちびと少しずつ読むよりも、まとまった時間を確保して取りかかりたい。もちろん時間は常に足りない。結果として、そういう本たちが、空きスペースを埋めてくる。
そんな本が今の棚を占領してきたら、心を鬼にして、別の、未読の山に積み直す。
あるいは、読んだけど、消化しきれずにいる本が増えてくることもある。自分にとって新しい分野とか、苦手な分野の本だと、そういうことが起きる。なんだかいい中身、おもしろい、と思って読み終わって、しかしまだ探求のしがいがあるのではないか、というような本。そういう本があるのは楽しいことだけど、後から入ってくるもののために、しかるべき場所に置き直す(もちろん探求し続けてもいい)。
そんなことをして、知らなかったことが、新しく入ってくる余地を残すようにしている。茶碗を空にしないと、新しい茶は注げない、みたいな話でもある。
足下に埋もれているなにごとかの話。とかなんとか

みなさん、生活とか仕事の仕方とかをなにか少しいい感じにしよう思った時、どんな風にしているのだろうか。
自分の場合は、時々、仕事の仕方の見直し期間を設けたりする。
と言ってもごたいそうな話ではなくて、単に少しスピードを緩めて、コレでいいのか自問しながら進める、ぐらいの話。メタ認知というヤツをちょいちょい挟み込みながらやる、ぐらいの話。昔から習慣的に、そんなことをしている。
近頃、ふんわりとそういう期間を持っていた。その結果、どうやら睡眠が足りてないことに気付いた。少し長めに眠るようにしたら、いろいろ改善した。それまでMP(せいしんりょく)が50パーぐらいでやっていたとしたら、今は80パーぐらい。少し元気になった。
……なんというか、バカバカしい。あまりにも基礎的すぎる。ファンダメンタルすぎる。そんなことにも気づけず、うだうだと暮らしていたとは、我ながらアホやな、と思う。
言い訳をすれば、加齢や日々の体調の変動、あるいは聞きかじった知識、例えば「歳をとると自然に睡眠時間は短くなる」「ヒトにはクロノタイプというものがあって、得意な時間帯と不得意な時間帯がある」なんていう話にまどわされ、その結果、自分というものがわからなくなっていたようだ。
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こんな感じで、「結局、重要なことは足下に埋もれている」という現象をちょいちょい経験する。言い方は大げさだけれども。
正解を探してあれこれ動き回る。読んだり話したり、うじうじと考え込んだりする。睡眠、のような基礎的 or 小さい課題の時もあれば、自分にとっては重要な問題の時もある。他人に話すと「なんでそんなことを」と笑われるようなことだったりもする。でもしかたがない。うだうだ過ごして、何度も繰り返し挑んで、なかなか「わかった」と手応えを感じられない。
しかし、あるとき、「あ、これかも」ということに思い至る。直観的に、正解だという手応えを感じる。手応え、としか言いようがない。なぜそれが正解なのか、理屈ではなくて「なんかわかる」。おそらくは無意識的なもの。
そしてその正解のようなものは、テーマを考え始めたときに、始めの時点ですでにふんわりと視野に入っていたことだったりする。「なんだ、これでよかったのか……」となる。
この場合は、生活の土台中の土台である睡眠に課題があった。本当に卑近な例で申し訳ない。ので少しでもマシな結論を挙げるとすれば、↓↓↓。
「あ、結局、自分の強みでしか、人様のお役に立つことはできないんだな」
「なんだかんだ言っても、環世界に動かされているな」
「自分はあれこれ手を出さずに、ひとつに集中しないとダメなタイプなんだな」
……とかなんとか、悩んだとしても、重要なことは、すでに知っていることかもしれない。
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仏教の世界の「悟り」にも、同じようなメカニズムがあるらしい。それを表したのが、「等覚一転名字妙覚」という一文。『法華経』にあるらしい。誰もが悟りを目指して進んでいくが、悟りはその歩みの延長線上にあるのではなく、実は歩き始めた地点の足下にある。そんな意味だと、エライ人が教えてくれた。
悟りと、自分のアホな気づきを一緒にするのはよくないだろうけど、しかし、これは何かを探求する時の普遍的なプロセスなのかもしれない、とも思える。何かを求めたとして、一直線に進んで行けるわけではない。あさっての方向に進んだり、ぐるぐるしたり、迷ったりするかもしれない。しかし、それもまた道。
おそらくアタマのいい人はそんなことにはならないのだろう。仏教で言えば空海なんかは、そういう人だったのかもしれない。あるいは運のいい人は、そもそもその正解の中に自然に居続けたりもしているのかもしれない。そんな才能にも幸運にも恵まれなかった自分としては、コツコツやっていくしかない。みたいな。