Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

私家版 ちょっと心を軽くする、理屈っぽいアプローチ

テレビで、あの『5億年ボタン』がやっているらしい。もう10年以上も前に、YouTubeか何かで見てとてもイヤなor不思議な気分になったことを覚えている。

5億年ものあいだ、ひとりで、何もない空間で、何もすることがない。という地獄。

そういう思考実験。時間とは。存在とは。記憶とは。人間とは。……なんていう話まで広がっていく。それまでの哲学の議論を紹介する内容、と言えばそのとおりなんだけど、カジュアルな表現手法の中に、何かヤバイものが潜んでいる。(オリジナルは、『週刊SPA!』連載のマンガらしい。)

テレビ版公式サイト↓

500000000button.com

 


個人的にも、「心の科学」みたいなものには興味がある。意識とか思考とかの正体はなんなのか、というような話。哲学という分野で語られることもあるし、認知科学とか神経科学とか脳科学とか、自然科学的な文脈で語られることもある。

いろいろな人がいろいろなことを言っているけど、個人的に気に入っているのは、『「いま」の土俵"』の話。

哲学者の森岡正博さんという方が書いていらっしゃる。↓↓

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短く説明するのは難しいけど、個人的な解釈をすれば、意識は「いま」の土俵がすべて、ということ。過去も未来もなく、今しかない。それだけ。いろいろなものが、いまの土俵に登ったり消えたりしている、という話。(本当は、意識の問題ではなく時間論の章で語っていらっしゃるし、この本に書いてあるのはそれだけじゃない)

 

これと似たような(と個人的に思える)解釈は、認知科学の分野でも存在する。↓↓

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オビには、『あなたが「思っている」と思っていることは、全部でっち上げだった!』と強めの言葉がある。原題は『The Mind is Flat。つまり、意識みたいなものはうすっぺらで、即興で創られた間に合わせのもので、無意識の思考とか深層心理とか内的世界とか、そんなものは存在しない、という説。おもしろい。

よく、意識というものをどう捉えるか、氷山に例えられる。当人が意識するのは、海面から顔を出している部分だけで、本当はその下に膨大な深層心理がある、というようなモデル。しかし、チェイターはそれをバッサリと切って捨てている。意識とか心とかは、表面的なものにすぎない。

 


この『「いま」の土俵』と『Mind is Flat』というアイデアの何がいいかと言えば、なんだか少し、心が軽くなるところ。……どういうことか。

例えばフロイトのように、なんだかよくわからない深層心理がヒトを形作っているとすれば、なかなか重たい。重苦しい。過去の記憶や情動がすべて、とするならば、自分ではどうにもならない感じもある。

一方で、うすっぺらな土俵に過ぎないとすれば……、意識とか心とか、それほど重要じゃない気もしてくる。いや、確かに重要なものではあるのだけれど、しかし、多くの可能性があるように思えてくる。次の瞬間、まったく違うことが意識の土俵に登ってくるかもしれない。いろいろ変えられるかもしれない。今、この感情や意識を重く捉えすぎる必要はない。……というような感じ方。なんせ、うすっぺらなんだから。

そもそも、まんがの中にもあるけれども、その土俵にいろいろ湧き上がってくることが、なんだかすごい。楽しい。喜ばしい。生命の不思議。

もちろんフロイト的な部分もあるだろうし、DNAレベルで、持って生まれた土俵の傾向なんかもあるのかもしれない。本当に辛い経験をした方たちに軽々に言えるようなことでもない。が、もしかすると、心は思ったより軽いのかもしれない。

固定的で、硬く、大きく、深い無意識的な氷山ではない。変化し続ける土俵、あるいはフラットで薄っぺらな即興なのだとすれば、変わったり、発展したり、楽になったり、楽しくなったり、成長したりする余地がある。そんな気がして、少し、生活が軽く、楽しくなる。