Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

モヤモヤしたら、そっと動く

ある夜、疲れ果ててぼうっとテレビを眺めていたら、若い女性アイドル(?)のような人が「ドヨンとした」経験について語っていた。

同じようなポジションの別の人が、「いい番組」の司会に決まったという。後輩のような人に追い越されたか、場所を取られたというようなことを思って、2、3日へこんだ、ドヨンとした、とか。本当に芸能界は大変だ。

しかし、それに近いようなことは誰の身にも起こることかもしれない。食っていくための働き口とか、あるいは業界のトップ争いとかでも。いつもケツを叩かれてしまう。少し違う話だが、若い人は、美しくいたりかわいかったり、かっこよかったりセンスがよかったり……そういうことの比重が大きそうにも思える。その価値観を強いられてしまう人は、本当に大変だと思う。

もちろんそういう競争原理が原因でなくとも、だれでもドヨンとしたりモヤモヤしたり、うつうつとしたり……ということはあるだろう。

自分も、「はー、まいったな……」とモヤモヤウツウツ。未だにそういうことがある。

いい歳して冴えん、とも思うものの、まあしかし、そういうものなのかもしれない。この歳にはこの歳なりの課題がある。時にはなかなかそこから脱せずに、長く低空飛行が続くこともある。しんど。


そんなときには本を読んだりもする。

一番危険なのは、そういう気分をのぞき込むような本かもしれない。嫌な気分を解消したくて、「読むだけで心が晴れる本」的なものを眺めてみたり、あるいはちゃんとした医師や研究者が書いた学術書のようなものを読んだりする。しかしこれは、効果があることもあるかもしれないけど、悪化させることもあるようにも思う。どういうことかと言えば、よりその問題にフォーカスして、思考がグルグルして、ドツボにはまってしまうという危険性のこと。

例えば嫌な気分のメカニズムについて書かれた本を読めば、どうしたった自分の嫌な気分を意識に登らせてしまう。見つめてしまう。そうすることで、より気分が悪くなる。忘れがたくなる。もちろんその解消法も書かれているのだろうけど、効くとは限らない。だから、もしそういう本を読もうとするならば、「平時」に読んでおいた方がいいのかもしれない。

現実から距離を取らせてくれる本、というのもある。個人的にはこれが望ましい。

つまり、山川草木の本とか、マンガとか、歴史ものとか純粋エンタテインメントとか……、つまり、現実の生活と距離があるもの。ああしろこうしろと迫ってこないもの。『ムー』でもいいかもしれない。できれば、今のその気分をうっちゃってくれるほどにおもしろいもの。心地良いもの。そういうものがある人は幸福だ。


とは言え、モヤモヤとか、つまり「気分」の問題というのは難しい。アタマではどうということはないとわかっても、気になるときは気になる。過ぎ去ったこと、だとアタマではわかっていても、簡単には流せなかったりする。切り替えて次に行こうと思っても、自分のハラは許してくれない。なんの拍子か、どんどんドツボにはまっていくこともある。もちろん、今後も続くであろう苦労、というのもある。先のことを想像すると、余計に気が重くなるタイプの。

個人差は大きいと思う。個人的にはややネガ寄りの体質なのかも、とは思う。暗黒面に引きずられやすい。もちろん、同じことが起こったとしても、ぜんぜん何も気にならないこともあるし、逆に必要以上に気を揉んだりすることもある。過去に適応障害という診断をもらったことがある。それ以降、100%になることはない。一方で、慢性うつ病とまではいたらない。そういう方たちは、本当に大変だろうと想像する。影ながら、少しでも良くなるよう祈っている。

時には気っ風のいいアネゴに、「あーめんどくせ、ごちゃごちゃ言ってないでメシ食って寝ろ!」的なことを言われたこともあったような気がする。確かにその通りと思いつつ、しかし、ね。なかなかそうはいかない。本当に、そのねえさんも常にそういうことができるのだろうか、などとも思う。

具体的な課題・問題があってモヤモヤしているのはまだいい。問題が明確なら、何か対応を考えるという行動に移っていくことができる。「はーなんで俺英語が使えないんだろ」と思ったら、結局は勉強するしかない。もっとも、それはモヤモヤというよりはグズグズ。

課題・問題がはっきりしないことも多い。あるいは自分ではどうすることもできない場合。冒頭の女性タレントで言えば、司会というポジションのために自分を磨くこともできるだろうが、しかし最終的にはキャスティングをする誰かの判断。それは自分でどうもこうもできない。また、誰かの心ない(と受け止めてしまった)言葉にモヤモヤしているとしても、その発言を消すわけにもいかず、究極を言えばその言葉が気ににならなくなるように自分の受け取り方を変えるしかない。が、そもそも自分を変えるといったって、すぐにできるものでもない。

ぼんやりとした不安、というヤツもある。見聞きしたところによると、この気分を感じる人は多いらしい。個人的にもそういう経験はある。ずっとではないが、時々。漠然とした未来への不安に立ちすくんだり。


しかしそれにしても、そもそも、気分とはなんなのだろうか。改めて考えてみると、よくわからないものでもある。

ある脳科学者による解説だと、気分とは「その瞬間に体で起こっていることを要約し、この要約を<気分>として感じる」ものだという。体の中では各器官やホルモン系、免疫系などが膨大なデータを生み出しているという。そして通常、ヒトはそれを意識できない。脳はこのデータから、意味を構築して、気分を生み出す。(『バレット博士の脳科学教室7 1/2章』リサ・フェルドマン・バレット 紀伊國屋書店

これはなんとなくわかる。いや、意識できないデータのことはもちろんわからないが、全体の要約、というコンセプトは理解できる。そういうもんかもしれない。多少の不安があっても、目標に向かって突き進んでいるような時は、後者が勝って、モヤモヤなどしていないだろう。充実している、という気分になる。

しかし、もしそうだとすれば、ややこしいのは、まったく意識できない要素が含まれていることだろう。

不安という部分を切り取って言えば、不安遺伝子、というような言い方も聞いたことがある。これも自分では意識できない。遺伝子のタイプで、セロトニンだかなんだかを多く作れるヒトと、少ししか作れないヒトがいるらしい。セロトニンは精神を安定させるとか。そして日本人は、少ししか作れないタイプが多いらしい。とは言え、体験的には、おそらく環境とか育ちによる部分も大きい。

セロトニンに関連して言えば、ドーパミン。これも意識しようがないが、素人の理解では、「何かをしたい・為したい」と思わせるホルモンらしい。意欲、と言えばよいか。確かに意欲があれば、モヤモヤしづらいかもしれない。前向きに行動できるかもしれない。だが例えば延々とTwitterを見続けるとか、しじゅうスマホを見るとか、あるいはギャンブル中毒になるとか、そういう依存的行動もドーパミンと強く関係しているという話も聴いたことがある。つまり、ヒトをおかしな方向へ突き動かす力もある(そういう人生もオツかもしれない、とも思うが。ちなみに、このドーパミン、「満足感」とは別モノで、単にヒトを行動に駆り立てる役割らしい)。

まあ、モヤモヤでもなんでも、気分というのは難しい。わからない。脳科学でも哲学でも神経科学でも、意識の研究は進んでいるが、しかし、意識──ここでは「モヤモヤ気分」に曲解して──がどう生み出されるか、すべて解明されているわけではない。


わかっていないなら、対処の方法がない。……というわけでもない。個人的には、少しはマシになる方法がある。

ひとつは、先に書いたように、本とか、そういう別の世界で過ごしてみる。映画でもマンガでも。

もうひとつは、ちょっと、そっと、行動してみることにしている。

なんでもいい。ツメを切るとかちょっと掃除するとか。ゴミを出しに行く。歯を磨く。顔を洗う。風呂を入れる。机の上を片付ける。モノを捨てまくる。メモを書く。親に電話してみる。30分、早足で歩いてみる。

仕事なら、5分だけやってみる。タスクを書き出してみる。メールの下書きだけ書いてみる。ゴミ箱を空にする。デフラグしてみる(古い)。キーボードを掃除する。

本当にドヨンorモヤモヤorうつうつとしているときは、そんなことすらもしたくないかもしれない。が、前述のように、「気分とは要約に過ぎぬ。現状、全てが悪いわけではない」と言い聞かせて、少しだけやる。やると、もうちょっとやりたくなる。最終的には、初めはいっさいやる気にならなかった、企画書が進んだりする。

そうなれば、モヤモヤは少し晴れている。気分が変わって、少しマシになっていることが多い。手近な例だと、単に面倒でやりたくない仕事も、5分やってみれば30分続けられるかもしれない。すぐにはモヤモヤが晴れなくても、そうした行動を積み重ね、気分を上書きしていくことで、いつかは少しマシな時が訪れる。

言い換えれば、気分などたいしたことではない、と捉える。あるいは、気分を重視し過ぎない。

ポイントは、「そっと」というところ。気合いを入れて動くわけではなく、静かに、シレっと始めること。構えたら重くなる。自分でも気付かないうちに始めていた、ぐらいがベスト。そうすれば何かが動き出す。

北方謙三は、「ソープに行け」と言ったらしい。開高健は、「とりあえず、引っ越ししてみたらドや」などと言っていた。それもそういうことだろう。動いてみよ。

あるいは、茶道、茶の湯というのは、心を整えるためのメソッドでもある。作法は単にマナーの問題ではなく、行動から良い心を生み出す知恵でもある。禅は、座って瞑想するものではあるが、それも行動。またもし修行をするなら、日々の行動も厳密にプログラミングされていて、その行動も、もちろん心を整えるためにある。「禅とは、巧妙に設計された精神の訓練法である」と看破したのは梅棹忠夫

もちろんリアルで明確な課題があって気分が優れない、モヤモヤするなら、どうにかしなくてはならない。より具体的な行動を取らなくてはならない。あるいは、そもそも気分というシステムが備わっているということは、きっと生き物に必要な機能なのだろうとも思う。体の要求に逆らい続けてもよくない。しかし、現代社会には動物的な意味での生存の危機はほとんどない。ならば、多少気分を無視しても問題ない。……と思っている。

もちろん、本当に何もできないような時は、ちゃんと休んだり、誰かの力を借りたりすべき時だろう。ムリは良くない。体の要求というか、意識できない脳の働きを無視しきってしまうのも良くない。アタマ偏重はイバラの道。ヒトはマシンではない。

だから、あえて行動しないというのもひとつの道だろうと思う。とことん、自分の気分や意識に付き合ってみる。のぞき込んでみる。そうせざるを得ない時もあるかもしれない。そのプロセスも何か生むかもしれない。それもまた道。例えば、モヤモヤの原因は、半ば気付かず、あるいは気付いているが無視し、長らく放置している「人生の課題」みたいなものなのかもしれない。それに気付けるかもしれない。

あるいはもっと突き詰めるなら、それは哲学になるような気もする。考え続けることができる人は、哲学のセンスがある人かもしれない。それもまた道、と思う。