Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

ジェネレーティブAIとか物語とかヒトとか

ジェネレーティブAIとか、ChatGPTとかなんとかこんとか、かまびすしいですね。

自分の仕事にも関係が大あり、だそうなので、ちょいちょいいじってみたりしている。少々の金を出してみたりもしている。

自分の力量では当然ながら、「こうすりゃいい!」「こう使え!」「これからはコレなしでは生き抜けない!」……とかなんとか、答えが得られるわけでもない。うだうだと付き合ってみている。

自分の関心は、大きくふたつに分けられそうだ。

①自分の仕事との関連で。どう仕事が変わるか、それをどう使うか、あるいは使わないか
②世の中がどう変わるか。人の認知や倫理的なことも含めて

①は、まあ別にいい。賢い人たちが、いろいろ開発してくれるだろう。自分も、使えると思ったところで遊んでみればいい、というぐらいに感じている。時間の問題。

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②が、気になる。

例えば、AIがなにかしらのコンテンツを生み出すことを考えるとどうなるか。今でもウェブコンテンツは溢れていると言っていいが、その混沌ぶりが、さらに加速するかもしれない。異次元の超大量生産。

その時、Googleの検索結果はどうなるか。もしかすると、今以上に使えなくなるかもしれない。嘘まみれでなにも信用できない、みたいな。

となれば、昔ながらの出版社とか著者とか、編集者がきっちりと噛んでいるとか、そういう信用の作り方がまた重要になるかもしれない。いや、そうした「人」への信頼も、AIがすべて飲み込んでしまうのかもしれないが。

あるいは、そういうカオスをどうにかするために、また少し別のAIが不可欠になるのかもしれない。AIが良い感じに編集してくれるようになるのかもしれない。そういうAIには、「コスモス」と名付けるといいかもしれない。

ところで、今のChatGPTを見ていると、ごくごく「まっとうな」ことを言う傾向があるように思う。そりゃそうだ。あまり正統的でないことを言うのは危険だ。倫理的な問題をはらむかもしれない。おかしなことを言う、と叱られるかもしれない。だとすれば、意見の方向性として「まあだいたい正しい」「普通に考えればそうなる」というコンテンツが増えるかもしれない。つまんね。

言い方を変えれば、「まっとうなコンテンツはAIに任せておけばいい」。となれば、ヒトの役割は、まっとうではない部分。そこに面白みがある。ということになるのかもしれない。ごくごくパーソナルな部分だとか、属人性、個人性の高いもの。それもクールな世界かもしれない。が、単に大げさに言ったり逆張りしたりムダに言い切ったりする人は、今でも多いように思える。

ちょっと違うかもしれないが、「伽藍とバザール」の比喩で言えば、伽藍はAIに、バザールをヒトが、とか。あるいは少し飛躍すれば、野﨑まどの小説『タイタン』で描かれた世界のように、すべてAIに任せて、ヒトは遊んでいるだけ、研究すら遊びになる世界。

短く言えば、ヒトはより遊びのある方向へ。まっとうなことはAIに任せる。

とは言え、遊び的な部分も、AIがどうにかしてくれるのかもしれない。例えばエンターテインメント小説を書かせるとか。

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それにしても、我々はAIが作った物語を、どう受容するのだろう。おもしろい、とか感じ入るとか感動するとか、そういうことが可能なのだろうか。今は、素晴らしい映画を見て好きになるとき、それを作った生身の人が後ろにいることが暗黙の了解になっている。「感動した!」という時、その人たちへの賞賛を含んでいる。

しかし、AIが作った物語だったら? おもしろく読んだ、という感想は持てるようになるのかもしれない。それ以上の、愛着とか偏愛とか、あるいは見た人の人生に影響を与えるとか、そういうことは起こりうるのだろうか。

もしAIがそこそこの物語を作れるようになったとして、単におもしろく読める物語が量産されて、人が駆逐されたりしないだろうか。それか、AIが作った物語には、また別の愛着の持ち方が生まれるのだろうか。

まあ、わからないというしかない。AIが作ったグラビアが広まっているそうだ。おそらく、AIを作っているその人も、未来がどうなるかわかっていないだろう。それだけにおもしろいとも言えるし、ヤバいとも言えそうだ。

ただ、多くの人が言うように、すぐに、普通の人の生活にも、AIは浸透してくるのだろう。スマートフォンで10年少々。ずいぶん生活は変わった。そこにAIがのっかったら……ね。なかなかおもしろい世界かもしれない。いや、まったくおもしろくなくなる、という妄想も、少し沸き起こったりする。ヒトの役割がなくなったら。将棋の羽生さんが言っていた。「AI時代に、なぜ人間が将棋を指すのか考えている」って。羽生さんは、「人間にしか指せない手を見つけるため」という解をお持ちのようだ。しかし……、ね。もしかしたら、それは幻想なのかもしれない。

羽生さんには、おそらく「物語」がある。藤井名人にも。それが人を引きつける。物語までAIに飲み込まれたら……、いよいよヒトもヤバイのかもしれない。小説だけではない、広義の物語。今はナラティブと言ったりするのか。関心③として、「ヒトとは」と付け加えた方がいいのかもしれない。

そんなことを考えるのは、人間の創造性を神秘化する、したい心が残っているのからなのかもしれない。果たして。