Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

学ぶことが簡単になった世の中だけど、学ぶ機会が奪われているので収支はどうなのか


今の世の中のいろいろなことが、自分のような凡人から学ぶ機会を奪っているような気がする。

例えばリモートワークというやつ。誰かの仕事っぷりを見て、体感して、感心したり学んだりするという経験ができない。

コストパフォーマンスみたいなのも同じ。今はタイパ、といういいかもあるようだけど、いずれにせよ無駄とか、失敗、試行錯誤をする余地とか、奪われている。そういうある種の「もがき」みたいなものから得るものも多いと思うのだが。

会社 or 社会みたいなものも、パフォーマンスを求める。生産性、というのか。もはや錦の御旗。そうなれば、失敗が許されないのももちろん、「遊び」みたいなものが生まれない。遊びの中から偶然に近いかたちで作られる、予期せぬ大きな成果が生まれようがない。小さくまとまってしまう。

世の中のムードとして、失敗に不寛容になってきているようにも思える。SNSには正論が溢れている。スジ、(表面的な)倫理みたいなものに適っていない行動は、よってたかって叩かれる。評論家が沸いてくる。いいことを言った気になってご満悦だ。おめでたい。

つまりは、遊ぶ余地が与えられていない、というところだろうか。

みんな忙しい。稼がないと将来がヤバい。おまけに情報やエンタメや欲しいものやなにやらはすでに飽和している。失敗より、今目の前の、成果。快楽。……そんなムード。



などとうだうだ書いて、自分が失敗とか試行錯誤すること、そういう行為を通じて学ぶということを重んじていることがわかった。

今の世の中、学ぶことがとてもやりやすくなった。そういうコンテンツがあふれている。例えばYouTube。英会話だって、スクールみたいなところに行かなくても、Chat-GPTとできる。そういう意味では、効率は良くなったのかもしれない。

しかし……、そういう、誰かが教えてくれることは、まあいい。でもまた別の種類の学びとして、自分で体得するしかない類いの学びもある。

わかりやすいところで言えば、自転車の乗り方とか。いくら動画を見たり本を読んだりしても、自転車に乗れるようにはならない。自分で、自分の全身を使って学ぶしかない。それには、試行錯誤や失敗がつきものだ。

自転車は体の使い方の話だけれども、脳内メインのことがらでも、似たようなことがある。例えばプレゼンのしかたとか。教科書的なものをいくら読んでも、できないものはできない。最終的には、現場で体験するほかない。そしてうまくいかなかった部分を、次の機会に修正するしかない。

あるいは、教科書通りにやれば良さそうなことでも、そこに書かれていないコツのようなものがあったりもする。パソコンのトラブルシューティングとか、新しいアプリケーションの使い方を学ぶ時に、「検索してもドンズバの情報がない」という経験がある人は多いだろう。自分でどうにかするしかない。そして、どうにかする機会を通して、「このアプリケーションはこういうものだ」という感覚を学んでいく。

卑近な例を挙げたけれども、おそらく、たいていのことがらに、そうした非常に個人的な側面がつきまとう。

つまり、やってみるしかない。やってみて、自分なりに学ぶしかない。そういう種類の学びがある。そして最終的には、それが真の課題だったりする。

だいたい、みんな少しずつ違う脳みそとか身体的条件がある。認知のしかたがある。感覚がある。万人に、いつでも有効な方法はない。

いくら田中角栄がすごい人で、その手法から学ぶところが大きいとしても、しかし、あなたは田中角栄ではない。大谷翔平でもない。チャールズ・シュルツでもない。そのままやれるわけではない。その人に与えられた条件で、成果みたいなものを作り上げなければならない。多くのビジネス書は、エンタメだ。

あるいは、教科書に書かれていない知恵が極めて重要だったりもする。それはとても個人的なことで、その個人的な部分が、成果につながっている。作家とかアーティストだとか、あるいはユニークな企画でヒットを量産するような人は、そういう個人的な部分で勝負しているのでは。科学研究、みたいな分野も、最終的にはそういうことなんだろうと思う。



ついつい正解を求めてしまう。今、答えが知りたい。と、思ってしまう。しかし……すぐに得られる答えはたいしたことじゃない。その先の、自分なりの答えを作らなければならない。あるいは、自分のトリセツは自分で作るしかない。