Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

細かな作業が嫌じゃなくなる方法 をいいトシして学ぶ

昔から、繊細な作業が壊滅的に苦手だった。そういうものをできるだけ避けてきた人生と言っていい。

学校の授業のノートをきっちりとるとか、家庭科の裁縫の時間とか、プラモデルとか、事務作業とか、きっちりデータを取る仕事とか……。なんというか、徳が積まれない人生であった。

そういう作業は、やっていてとても疲れる。続かない。うまくできない。そもそもやる気にならない。だから、時々テレビなんかで伝統工芸の職人さんの仕事っぷりを見て感心して、しかし「しんどくないのかね……」と思ってしまうアホな自分がいた。

とは言え不思議なもので、最近、とてもちまちました作業を、好きでやっている。何かと言えば、釣りの、毛針を作る作業。フライ・タイイングと言ったりする。

こんなのを作る。↓

できあがりのサイズは、だいたい5ミリから数センチぐらい。写真のは1.5センチぐらい。細かい、としか言いようがない。それはもう苦手。

フライフィッシング=西洋式毛針釣りは、若いときからやっている(腕は万年初心者)。この毛針=フライを作る作業は、釣り自体とセット。フライフィッシングをする人は、自らフライを作ることになっている。だから、苦手な作業なんだけれども、やらなくてはならない。(完成品を買うこともできるのだが、なんだかそれは負けた気分になる)

まあ、苦手なりに、簡単に巻けるフライ(フライを作ることを「巻く」と表現するのが慣わし)で釣ったり、最低限で済ませたり、釣り方でカバーしたりすることで、この釣りを楽しんできた。

しかし最近、この作業が、けっこう好きになってきた。以前は、
「しかたがないから巻く」
という気分が強かったけれど、今は、
「楽しみとして巻く」
という感じになってきた。

なぜか。しかも最近は小さいものが見えないのに。目にも、年齢なりに来たるべきものが来ているのに。

我ながらよくわからない。のだけれども、なんとなく、自分の扱い方がわかってきたから、という気もしている。

いまさらかよ、という内なるツッコミも聞こえるのだけれども、まあ自分がどんくさいのはわかっていたこと。しかたがない。

例えば、あるフライタイイングの中のあるひとつの技術が、うまくいかないとする。下手だとする。以前は、↓

下手だから、おもしろくない。そうなれば、その技術を避けてしまう。それはある意味、楽しさを捨てていることになる。その時自分は、「下手だからしゃあないし、まあこの技術がなくても釣れるし」とややムリヤリに納得する。

が、今は↓

「下手なりに、ちょっとでもうまくできるように工夫してみよう」と切り替えるのがうまくなった。その結果、これまでの自分よりも、うまくできるようになったことが増えた。いいフライが巻けることが増えた。

……やっぱり、書いていて、「いい歳して、やっとかよ!」という声が聞こえる。脳内の誰かがそう吐き捨てる。:-0

とは言え、まあ、そういうこと。苦手な作業だとしても、やりようがある。自分ができるようにやる、自分なりの方法を見いだす。言ってみれば、自分を理解する。そんなことが、フライを巻く作業を楽しくしてくれているように思える。

自分なりのコツをごくざっくりとまとめれば、あえてゆっくりやる、ということだろうか。立ち止まりながら、あるいは自分を俯瞰しながら、やる。……フツーだな :-0

別のことがらにも、この経験が生きている。苦手で、しかしやらなくてはならないことへの抵抗感が減った。なんとかなるのでは、と思えた。急がず、ゆっくりと。

あるいは、丁寧にやることの重要性は知っていながら、せっかちな気質がそれを許さなかったということかもしれない。今は、ゆっくりやるように自分を手なずけることを学んだ。


苦手なことはやらなくてもいい、という話もある。確かに。強みで勝負せよ。

しかし、それが楽しみになるのなら……もちろんそれは寿ぐべきこと、と思ったりする。同時に、いい歳こいて、そんな自分を発見して、世界に適応してみるのも悪くない、などとも思う。