Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

本が読めない時についての覚え書き

本が読めない時がある。なんだか買えない時がある。

つん読本を眺めて、あるいは書店をぶらついて、どれもおもしろいかもしれないけど、なんだかその気にならない。読むのがしんどい気がする。高いなあという気分が先に立つ。……とかなんとか。買えない。買ったとしても、読めない。読んでも、たいしておもしろくない。

本読みのみなさんは、そういう気分になることはないのだろうか。いつも本を楽しみにしているのだろうか。……わからないけど、自分と似た人もいるのではと妄想しながら、「自分の場合」を書き残しておく。特に結論とかお役立ち情報はないのであしからずm(_ _)m


▼体調のこと

単純に、体調の問題のこともある。目が疲れているとか肩が凝ってどうしようもないとか、そういう時はもちろん気分が乗らない。だからまずは体調を取り戻すことを考える。

熱い風呂につかる。ちょっとその辺を走ってくる。腕立て&腹筋する。休む。寝る。目の疲れなんかは意外に気付きづらいというか、疲れていてもどうにかなる範囲が広いように感じる。だからダメージが蓄積しないように、適度に、意識的に休む。

目の疲れに関しては、メガネが合っているかも時々気にする。なんとなくこのところアタマが重いとか集中力がないとかっていう時、メガネを替えるといいかもしれない。というのは個人的経験。

▼飽き・飽和

飽きている、という時もある。そういう気分になるとき、というか。

清水幾太郎の『本はどう読むか』という本に、そういう経験について詳しく書いてあった。少年だった頃、子ども向け冒険活劇小説に熱中したが、ある日突然おもしろくなくなって、すべて友人にあげてしまう、というお話。

 

“人間の精神の成長は、しばしば、飽きるという形で現れることがある。”

 ⇒本はどう読むか (講談社現代新書)   清水 幾太郎 

 

とても古い本だけど、とても好きな一冊。

英語だと「outgrow」とでもなるか。成長して、例えば服が着られなくなること。ウィズダム英和辞典ではこんな感じ。

 

"1〈人が〉(成長して)〈衣類など〉を着られなくなる; 〈昔持っていた物・習慣・考え〉がなくなる, …を捨てる, …に関心がなくなる
We've outgrown each other.
互いのことに関心がなくなった.
2〈会社などが〉(規模が拡大して)〈職場〉が狭くなる.
3〈ほかの人・物〉よりも大きくなる, …が追いつかなくなるほど拡大する
populations (that are) outgrowing food supplies
食糧供給が追いつかないほど増加する人口.”

 

growという言葉のバリエーションであることがおもしろい。言い換えれば、新しいテーマやジャンルが見つかるまでの端境期、ということだろうか。

物語でなく、科学だったり論説だったり思想だったり……アカデミックなテーマの本について考えるなら、「飽きる」というよりは「収穫が逓減している」と言った方がいいかもしれない。つまり、いろいろ読んだ結果、本から学ぶことが少なくなった状態。だからあまり読む気にならない。分野によってはそういうことがあるだろうと思う。あるいは、自分の興味がもはやそこになくなったか。それか、「わかった気」になっているか:-)

▼目的を見失っている

読むのに目的を持っていることがある。実用的な読書というか。例えば、魚釣りのために魚類の研究について読む、みたいな。

しかし、時々魚釣りのことを忘れて、魚類研究そのものに絡め取られる。欲している答えが見つからず、あれこれ探しているうちに「やっぱわからん、魚類学の基礎を理解せねばならん」などとアサッテの方向に向かって、魚釣りという目的を忘れてしまう。少し広げて言えば、手段が目的に取って代わる、的な。

そういう、専門的な科学の本は、読むのにエネルギーを要する。しかし、実はそれを理解したいわけではない。本当の関心は、魚釣りというごくごく実利的な興味。そうなると、その読書は「お勉強のためのお勉強」ということになって、楽しみというよりは仕事になってくる。そのまま読もうとしていると、理解は進まず、読むのが苦痛になる。

……とかなんとか、まあ迷走というか、このあたりの心理は微妙なものがある。とにかく、「本は読みたいものを読め」という原則があるとすれば、そこから遠ざかっていって、結果として読めない・買えないということになる。

▼欲しいもの(情報)がない

逆に、特に何も欲していない時、というのもある。課題だったり知りたいことだったりが思いつかない。あるいはエンターテインメント的なものも別の遊びで満たされている。特に本を読む必要もない、みたいな。枯れてしまった、と言える。

新型コロナのもとでの生活で、一時、ずいぶん活動の幅が狭くなった。ということは、刺激がない。刺激というとたいそうなものを考えがちだけど、なんと言えばいいか、課題や知りたい欲のタネみたいなもの。外に出たり人に会ったりすると、なにかしらの刺激を受け取る。もちろん各種メディアなどから入ってくる刺激はあるのだけれど、リアルな体験から生まれる動機は大きい。そういうものを得づらい状況では、本を読む動機や欲望も縮こまってしまう。

▼集中力を失っている

何か不安があるとか、生活上の大きな課題があるとか、そういう時は、それを解消するために読むようになることもあるが、逆にぜんぜん読書が手に付かない状態になるときもある。

あるいは、そういうその瞬間の集中力というより、少し長い期間の集中力を失って読めない時もある。大きなテーマの読書、例えば数日とか一週間とか一ヶ月とか、そういうスパンで社会学に取り組むとして、でもそれだけの精神的なリソースが空いていない。だから読めない。

……というのはとても個人的な話のように思えるけど、つまりは本以外のところに気持ちが行っている。当然そういうこともあるだろうし、別に悪いことでもない。存分にその課題に取り組むのがいいのだろう。

▼本棚に空きがない、本を置くスペースが足りない

本棚が片付いているのか、というのも重要な気がする。

当然、本はかさばる。増殖する。本棚が多少大きくても、時間の問題。すぐにいっぱいになる。本のために家を建てる、という究極の文人生活を見聞きすることがあるけど、もちろんそんなのは無理。限られたスペースでどうにかしなくてはならない。『蔵書の苦しみ』『本で床は抜けるのか』という類いの本は多い。

とすれば、もちろん整理しなくてはならない。不要な本を処分しなければならない。しかしこれには二重の苦労がある。

ひとつは、普通の掃除と同じように、単に面倒だという苦労。これはまあいい。

もうひとつは、その本を処分していいのかという判断をしなくてはならないこと。もしかしたらまた読みたくなるのでは、参照しなくてはならなくなるのでは、高かった本なので惜しい……とかなんとか、センチメンタルなものも含めて、本を処分するのは難しい。

理想は、自分なりの分類で美しく整理されていることだろう。そして常に空きがあって、買ってきた本を収められる。

しかし実際には、分類などしようもないほどごだごだと積み重なって、必要な本を引き出そうと思っても常に本の雪崩が起きてしまうような状態。

それが心理的な負担になっていると、新しい本を買う抵抗になる。我ながらばかばかしいと思うけど、これも凡夫の現実だと思って受け入れている。

 


……などと、なにかソレっぽく分類しながら書いたが、実際はとてもあいまいな心理だったりする。上記のような要素がからまってもつれあい、ただ「読めない気分」がふわふわと意識に登っている状態。だからちょっとしたことでまた読むようになるかもしれないし、意識が気付いていない、無意識レベルの障害だったら、ずっと読めない気分のままかもしれない。あいまいな心理、としか言いようがない。

「読めない時」と書いたけど、それは「読む方がいい」という前提が多少なりとも含まれた言葉かもしれない。言い換えれば、「本を読むべきだと思っているのに読めない・買えない時がある」とでもなるか。

しかし実際には、もし読めない・買えないのならば、別に読まなければいいと思っている。

若い頃は、何かしていないと不安とか、仕事がデキるようになりたいとか、単に賢くなりたいとか、そういう思いもあった。だから半ば強いるように読んだこともあった。が、もはや……、そういうモードでもなかったりする。自然になりゆきに任せるのがいいのでは、と老人のようなことを思っている(楽しみとしての読書、というのももちろんあるけど、それは一旦置いておく)。

食べたくないのに食べるのが体に悪いように、読みたくないのに読んでもよろしくない、というようなことを書き残したのはレオナルド・ダ・ヴィンチだったか。おそらくゲーテとかモンテーニュとかなんとか、そういう時代からいろんな人が同じようなことを言っているはず。だから、少なくとも今は、買えない、読めないと思っても足掻くことはしない。そう心がけている。