Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

巨人たちの肩の上に乗って、とは言うものの:-(


先人に学べという。巨人たちの肩の上に乗って、という。

確かにすべからくこれまで生きた人たちの世話になって、今の世界や自分がある。それは間違いない。遠くても近くても、いろいろな人に学んできた。

しかし、学べないこともある。例えば、自転車の乗り方はどうか。結局のところ、自分で体得するしかない。

同じように、「自分のこと」も自分でしか学べない。どう生活するか、どうメシを食うか、今この瞬間、何をどうすべきか。誰かが教えてくれるわけではない。

ある日、若い人が得々と「最新のナレッジ・マネジメント・メソッド」を語ってくれて、参考になったのと同時に、上記のようなことに思い至った。あれはよく晴れた、ちょうど今頃の季節。渋谷の外れの、なにやらおしゃれなコーヒー屋だったか。その若者も店員さんも、気持ちの良い人たちだった。

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確かに、書店の棚とか、YouTubeなんかには、そういうことを教えてくれそうな文字が並んでいる。それは一瞬のカンフル剤であったり、ある種のエンターテインメントだったりする。あるいは単にマーケティングの結果だったりもするけど、いずれにせよ巨人たちが肩を貸してくれそうな気がする。誠心誠意のものも中にはあるが、いずれにせよ本当の意味で学ぶには、自分で体得するしかない。

メディアがいろいろ言ってくれること、それ自体が悪いとは思わない。おそらく読む人もそういうことには気付いていて、しかし頼りたくなるのだろう。そういう性質を、人は持っているのだろうと思う。

ごく大雑把に言ってみれば、易者に頼るか、神様仏様に頼るか、あるいは科学に頼るか。それに近いものがあるのかもしれない。世の中に流されるのも、ひとつの道だろう。

あるいはキルケゴールのように……、いや、この人は、最終的には神だったか。だったらニーチェのように、「超人」を目指すか。

先人に直接学ぶことはできないが、しかし自分で得ていくしかない。……というのは、仏教の教えか。南無阿弥陀仏ではなく、禅とかの方。「教外別伝不立文字」。仏の教えは、文字や言葉、またおそらく概念で規定するものではない。

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……などと、それこそ先人が言っていることが浮かんでくるけれど、しかし、このぼんやりしたアタマでは、思考の糸が切れてしまう。

単に、言われてもできない、わかっていない、能力がない、のかもしれない。そういうある種の器用さがないのかもしれない。

しかし一方で、「自分でやった方が楽しいのでは?」などとも思う。

例えば趣味はどうか。遊びで何かする時、全て教えてくれる人がいたら……、ありがたいかもしれないが、それは楽しみをドブに捨てているようなものなのではないか。自分でアレコレやって楽しみを見つけるのが、趣味の醍醐味なのではないか。とかなんとか。

仕事はそうはいかないかもしれない。どなたかの金をもらっている以上、楽しみとかっていうよりも、成果。効率良く成果を出すことが全て。車輪の再発明は尊ばれない。

しかし、それでも、「その人に合ったやりかたでないと、成果はでない」とも思う。その人に合ったやり方が、結局一番うまくできる。そしてその人に合ったやり方というのは、自分で体得するしかない。コツコツやることが得意な人が、一発当てる系の成果を求められても、むずかしいのではないか。

会社も同じだ。Appleが、近所の安売りスーパーのような売り方をしようと思ってもできるわけがない。それに、会社もまた、最終的には個々の人でできている。

まず「自分の強みは何かを問え」と言った、マネジメントのグルが居る。それと同じことかもしれない。

……そうなると、実は、先人に学んでいるのかもしれない。いやしかし、その言葉の本当の意味を知るのは、自ら人生のあれやこれやと格闘した後。やはり、体得する他ない。いやでも、先人に言われていなかったら、そもそも気が付きもしなかったかも。いやしかしやはり……。