Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

とある安い万年筆がサイコーであること

なぜかわからないんだけれども、ある安い万年筆が最高に調子いい。

パイロットのプレラ、正式には「プレラ 色彩逢い iro-ai」。いろあい、と読むのか。

 

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3,000円台の、求めやすいモノ。「なくしても惜しくない、持ち歩き用にでも」と何気なく買ったものだが、これが。堂々と、他の高級筆記具(当社比)を抑えて、自分の筆記具のド真ん中にいる。鎮座ましましている、と言いたくなる。

ツバメノートの紙とのコンビネーションが最高だ。引っかかるわけでもなく、ツルツル or ヌルヌルと滑りすぎるわけでもなく、紙をなでているだけでもない。しっとりと紙に食いつく感じ。微かな紙の凹凸を感じながら、引きたいところに線が引ける。止めたい時は止まる。

これはもう、「体感してみて」としか言いようがない。

が、がんばって表現してみれば、例えばいい革のバッグの手触りとか、すっかり馴染んだデニムの安心感とか、ちょうど良く油が回った機械を動かす感触というか……。大げさに言えば、そういう類いの、本能的気持ちよさがある。ただ疲れずに書けるとか、スムーズに書けるとか、滑らかだとか、かすれないとか、それだけではない。

擬音で表現してみれば……、例えば、

昔の油性ボールペンが、ゴリゴリ、
今の海外の太めの油性ボールペンが、ヌルヌル、
イマドキのゲルボールペンが、サラサラ1、
イマドキの日本の油性ボールペンも、サラサラ2
細いボールペンならどんなインクでも、カリカリ、
LAMYのSafariなどの普通の格安万年筆も、サラサラ(たまにザラっカリっ)、

そしてプレラ+ツバメノートが、ヌルサラっ、というところ。……わかんないすね :-)

違う言い方をすれば、ペン先から伝わってくる感触の「湿度」と表現できるかもしれない。本当に乾いた感じが、2Hとか硬めの鉛筆。一番ウェットなのが、太めの万年筆やエナージェルの、ドバドバ。中間はいろいろあると思うが、そのあんばいがちょうどいい。始めに挙げたように、しっとり。

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ただ、他の紙だとどうなのかとか、ペン自体の個体差とか、人それぞれの手癖みたいなものがあるだろうから、きっと誰にでもそうだというわけでもないのだろうと思う。たまたま、今、この使っているプレラがいい。軸の太さとかバランスだとかも、好みの世界だろう。万年筆の通の人たちに言わせれば、わかってねえな、ということなのかもしれないんだけど、それでも今の自分に一番気持ちいいことは疑いがない。

硬めのペン先が好み、ということなのかもしれない。筆圧が強めなのかもしれない。確か、池波正太郎もそんなようなことを言っていた。書き始めは硬いもので楷書を書き、執筆が乗ってくると柔らかいもので走る、というような(合羽橋池波正太郎記念館にそんなことが書いてあったように記憶している)。

ペン先はM。より細いFのペン先のバージョンも持っていて、こちらも悪くない。が、細いだけに、自分の手癖では少し紙に引っかかったりもしてしまう。コンバーターも付いているが、その商品コンセプトを無視して、カートリッジインクを使っている。バリバリ使うものはパっと補充できるほうがいい。

細かいことを言えば、ツバメノートを使っていても、いつも同じ書き味、ということでもないように思う。ある時、ページの下の方に行くと、書き味が良くなることに気付いた。なんでかわからないんだが、いいあんばいで書ける。で、フと思い至ったのは、上の方を書いているうちに、自分の手で、下の方紙をちょうどいい状態に慣らしているのでは、ということに思い至った。我ながら細かい。

で、それ以来、新しい見開きを開いたら、毎回、少し紙面を手でこするような儀式をするようになった。そうすると、いつも最上の状態で書ける。

ちなみに、ツバメノートは、小さいものは普通の上質紙。フールス紙ではない。ので、書き味はまったく違う。時々A7くらいの小さなツバメノートについて、その紙がどうだとかって言う人がいるが……、少なくとも、自分とは違うところを見ているようだ。どうせツバメノートを使うなら、A5以上のものがいいのではないか。

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通常、万年筆と言えば、いわゆる「金ペン」が「万年筆にこだわる人の万年筆」なのだろう。14金とかなんとか、ニブ、つまりペン先のパーツが柔らかい金属でできている。そのおかげで書き味が良くなる。一方、スチールと言ったりすると思うのだけれど、プレラも含めて、「非金ペン」は一段下に認識されているの(のだと思う)。

自分も、マニアではないのだけれども、金ペンを何本か持っている。分不相応に、少し古いモンブランもあったりする。もちろんそれらもいいし、またしばらく経ったら違うことを言っているかもしれない。しかし、ここ数年の自分にとっては、プレラがサイコーだ。

ただ、それほど多くのペンを使ったことがあるわけではない。試し書きなら少しはしたけれども、結局、万年筆は少し長い時間が経ってからでないと、その真価はわからない、と思っている。そういう意味では、何十本も使い込んだわけではない。名器と言われているらしいペリカンのスーベレーンは使ったことがない。あるいは、5万円以上するような高級品も。

ただ、ツバメノートではない、キャンパスノートとかマルマンのベーシックスパイラルの場合は、金ペンの方がいい。RHODIAやクレールフォンテーヌならば、金ペンもスチールペンも両方なかなか。

巨人たちの肩の上に乗って、とは言うものの:-(


先人に学べという。巨人たちの肩の上に乗って、という。

確かにすべからくこれまで生きた人たちの世話になって、今の世界や自分がある。それは間違いない。遠くても近くても、いろいろな人に学んできた。

しかし、学べないこともある。例えば、自転車の乗り方はどうか。結局のところ、自分で体得するしかない。

同じように、「自分のこと」も自分でしか学べない。どう生活するか、どうメシを食うか、今この瞬間、何をどうすべきか。誰かが教えてくれるわけではない。

ある日、若い人が得々と「最新のナレッジ・マネジメント・メソッド」を語ってくれて、参考になったのと同時に、上記のようなことに思い至った。あれはよく晴れた、ちょうど今頃の季節。渋谷の外れの、なにやらおしゃれなコーヒー屋だったか。その若者も店員さんも、気持ちの良い人たちだった。

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確かに、書店の棚とか、YouTubeなんかには、そういうことを教えてくれそうな文字が並んでいる。それは一瞬のカンフル剤であったり、ある種のエンターテインメントだったりする。あるいは単にマーケティングの結果だったりもするけど、いずれにせよ巨人たちが肩を貸してくれそうな気がする。誠心誠意のものも中にはあるが、いずれにせよ本当の意味で学ぶには、自分で体得するしかない。

メディアがいろいろ言ってくれること、それ自体が悪いとは思わない。おそらく読む人もそういうことには気付いていて、しかし頼りたくなるのだろう。そういう性質を、人は持っているのだろうと思う。

ごく大雑把に言ってみれば、易者に頼るか、神様仏様に頼るか、あるいは科学に頼るか。それに近いものがあるのかもしれない。世の中に流されるのも、ひとつの道だろう。

あるいはキルケゴールのように……、いや、この人は、最終的には神だったか。だったらニーチェのように、「超人」を目指すか。

先人に直接学ぶことはできないが、しかし自分で得ていくしかない。……というのは、仏教の教えか。南無阿弥陀仏ではなく、禅とかの方。「教外別伝不立文字」。仏の教えは、文字や言葉、またおそらく概念で規定するものではない。

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……などと、それこそ先人が言っていることが浮かんでくるけれど、しかし、このぼんやりしたアタマでは、思考の糸が切れてしまう。

単に、言われてもできない、わかっていない、能力がない、のかもしれない。そういうある種の器用さがないのかもしれない。

しかし一方で、「自分でやった方が楽しいのでは?」などとも思う。

例えば趣味はどうか。遊びで何かする時、全て教えてくれる人がいたら……、ありがたいかもしれないが、それは楽しみをドブに捨てているようなものなのではないか。自分でアレコレやって楽しみを見つけるのが、趣味の醍醐味なのではないか。とかなんとか。

仕事はそうはいかないかもしれない。どなたかの金をもらっている以上、楽しみとかっていうよりも、成果。効率良く成果を出すことが全て。車輪の再発明は尊ばれない。

しかし、それでも、「その人に合ったやりかたでないと、成果はでない」とも思う。その人に合ったやり方が、結局一番うまくできる。そしてその人に合ったやり方というのは、自分で体得するしかない。コツコツやることが得意な人が、一発当てる系の成果を求められても、むずかしいのではないか。

会社も同じだ。Appleが、近所の安売りスーパーのような売り方をしようと思ってもできるわけがない。それに、会社もまた、最終的には個々の人でできている。

まず「自分の強みは何かを問え」と言った、マネジメントのグルが居る。それと同じことかもしれない。

……そうなると、実は、先人に学んでいるのかもしれない。いやしかし、その言葉の本当の意味を知るのは、自ら人生のあれやこれやと格闘した後。やはり、体得する他ない。いやでも、先人に言われていなかったら、そもそも気が付きもしなかったかも。いやしかしやはり……。

ジェネレーティブAIとか物語とかヒトとか

ジェネレーティブAIとか、ChatGPTとかなんとかこんとか、かまびすしいですね。

自分の仕事にも関係が大あり、だそうなので、ちょいちょいいじってみたりしている。少々の金を出してみたりもしている。

自分の力量では当然ながら、「こうすりゃいい!」「こう使え!」「これからはコレなしでは生き抜けない!」……とかなんとか、答えが得られるわけでもない。うだうだと付き合ってみている。

自分の関心は、大きくふたつに分けられそうだ。

①自分の仕事との関連で。どう仕事が変わるか、それをどう使うか、あるいは使わないか
②世の中がどう変わるか。人の認知や倫理的なことも含めて

①は、まあ別にいい。賢い人たちが、いろいろ開発してくれるだろう。自分も、使えると思ったところで遊んでみればいい、というぐらいに感じている。時間の問題。

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②が、気になる。

例えば、AIがなにかしらのコンテンツを生み出すことを考えるとどうなるか。今でもウェブコンテンツは溢れていると言っていいが、その混沌ぶりが、さらに加速するかもしれない。異次元の超大量生産。

その時、Googleの検索結果はどうなるか。もしかすると、今以上に使えなくなるかもしれない。嘘まみれでなにも信用できない、みたいな。

となれば、昔ながらの出版社とか著者とか、編集者がきっちりと噛んでいるとか、そういう信用の作り方がまた重要になるかもしれない。いや、そうした「人」への信頼も、AIがすべて飲み込んでしまうのかもしれないが。

あるいは、そういうカオスをどうにかするために、また少し別のAIが不可欠になるのかもしれない。AIが良い感じに編集してくれるようになるのかもしれない。そういうAIには、「コスモス」と名付けるといいかもしれない。

ところで、今のChatGPTを見ていると、ごくごく「まっとうな」ことを言う傾向があるように思う。そりゃそうだ。あまり正統的でないことを言うのは危険だ。倫理的な問題をはらむかもしれない。おかしなことを言う、と叱られるかもしれない。だとすれば、意見の方向性として「まあだいたい正しい」「普通に考えればそうなる」というコンテンツが増えるかもしれない。つまんね。

言い方を変えれば、「まっとうなコンテンツはAIに任せておけばいい」。となれば、ヒトの役割は、まっとうではない部分。そこに面白みがある。ということになるのかもしれない。ごくごくパーソナルな部分だとか、属人性、個人性の高いもの。それもクールな世界かもしれない。が、単に大げさに言ったり逆張りしたりムダに言い切ったりする人は、今でも多いように思える。

ちょっと違うかもしれないが、「伽藍とバザール」の比喩で言えば、伽藍はAIに、バザールをヒトが、とか。あるいは少し飛躍すれば、野﨑まどの小説『タイタン』で描かれた世界のように、すべてAIに任せて、ヒトは遊んでいるだけ、研究すら遊びになる世界。

短く言えば、ヒトはより遊びのある方向へ。まっとうなことはAIに任せる。

とは言え、遊び的な部分も、AIがどうにかしてくれるのかもしれない。例えばエンターテインメント小説を書かせるとか。

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それにしても、我々はAIが作った物語を、どう受容するのだろう。おもしろい、とか感じ入るとか感動するとか、そういうことが可能なのだろうか。今は、素晴らしい映画を見て好きになるとき、それを作った生身の人が後ろにいることが暗黙の了解になっている。「感動した!」という時、その人たちへの賞賛を含んでいる。

しかし、AIが作った物語だったら? おもしろく読んだ、という感想は持てるようになるのかもしれない。それ以上の、愛着とか偏愛とか、あるいは見た人の人生に影響を与えるとか、そういうことは起こりうるのだろうか。

もしAIがそこそこの物語を作れるようになったとして、単におもしろく読める物語が量産されて、人が駆逐されたりしないだろうか。それか、AIが作った物語には、また別の愛着の持ち方が生まれるのだろうか。

まあ、わからないというしかない。AIが作ったグラビアが広まっているそうだ。おそらく、AIを作っているその人も、未来がどうなるかわかっていないだろう。それだけにおもしろいとも言えるし、ヤバいとも言えそうだ。

ただ、多くの人が言うように、すぐに、普通の人の生活にも、AIは浸透してくるのだろう。スマートフォンで10年少々。ずいぶん生活は変わった。そこにAIがのっかったら……ね。なかなかおもしろい世界かもしれない。いや、まったくおもしろくなくなる、という妄想も、少し沸き起こったりする。ヒトの役割がなくなったら。将棋の羽生さんが言っていた。「AI時代に、なぜ人間が将棋を指すのか考えている」って。羽生さんは、「人間にしか指せない手を見つけるため」という解をお持ちのようだ。しかし……、ね。もしかしたら、それは幻想なのかもしれない。

羽生さんには、おそらく「物語」がある。藤井名人にも。それが人を引きつける。物語までAIに飲み込まれたら……、いよいよヒトもヤバイのかもしれない。小説だけではない、広義の物語。今はナラティブと言ったりするのか。関心③として、「ヒトとは」と付け加えた方がいいのかもしれない。

そんなことを考えるのは、人間の創造性を神秘化する、したい心が残っているのからなのかもしれない。果たして。

わかっていないのに、わかってる:あるいは腹の虫が言うことを聞いてみること

 

時々、「わかっていないのに、わかっている」と感じることがあったりする。あれはなんなのだろうか?

その昔、ジャンケン大会みたいなものに参加した時のことををよく覚えている。

何か懇親会のようなものがあったと想像してほしい。そしてその余興で、賞品をかけたジャンケン大会が始まった。

主催者と参加者がみんなでジャンケンをし、主催者に勝った人が勝ち残る。そして誰かが賞品にたどり着くまで続ける。……というアレ。

その途中、なぜかわからないのだが、「勝てる」という確信めいた気持ちが生まれた。なぜ勝てると思ったのかはわからない、けど、自分が出したいテを出せば勝てる、間違いない。……そんなフィーリング。

そして実際に、勝った。

普通なら、たまたまだと解釈するところだろう。しかしそれにしては、妙に自信があった。間違いなく勝てる。……これはなんだったのか?

その答えに気付いたのは、主催者に「読んでたね!」と声を掛けられた時。

どういうことかと言えば、主催者は「パターン」を作って手を出していた。例えば必ず①グー、②チョキ、③パーの順でローテーションする、というような。

つまり規則性があった。そして自分は、それに合わせたテを選択していた。主催者としては「読んでたね、合わせてきたね」ということになる。

意識としては、その規則に気付いていたわけではない。言葉で「あ、これは規則がある」と認識したわけではない。しかし……、もしかすると、意識と無意識の間、中間意識?みたいなところまで、その規則があることが出かかっていたのかもしれない、とも思ったりする。いずれにせよ、自分がしたことに驚く、おもしろい経験だった。


広げて言えば、無意識、というテーマなのかもしれない。どちらかと言えば意識側 or 理性側に偏りがち、と思われる自分にとっては、新鮮なテーマでもある。

とは言えもちろん、思い出してみれば、頭の良い人たちがすでに言っていることでもありそうだ。有名な「暗黙知」なのかもしれない。「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる。」というアレ。↓

 


「ひよこ鑑定士」の話もおもしろい。

ひよこのオスメスの判別は、職人技らしい。「ここにでっぱりがあるのがメス」というようなわかりやすいものではなくて、非常に微妙であいまい。素人にはなんの差も感じられない。言語化も難しい。でも、トレーニングを積むとわかるようになる。

という話が出てくるのは、デイヴィッド・イーグルマンの本。これも無意識に近いところでの理解、判断の話に思える。

 

もしあなたが初めて脳とか意識とかについて何かを読もうと思っていたとしたら、間違いなくおすすめしたいのがイーグルマン。

 


また、近頃は、腸が「第二の脳」などと言われるらしい。これも無意識側の一要素なのかもしれない。おもしろそうだ。

腸が行っているなんらかの情報処理の量は、脳のそれに匹敵する。そういう事実が明らかになってきたらしい。腸は健康だけではなく、なんらかの選択や行動、気分にまで大きく影響を与えている。

言い換えれば、今感じている、憂鬱 or 楽しさ or 不安 or 快感……は、腸が元になっているのかもしれない。腸が気分を左右しているのかもしれない。

腸の中には、膨大な細菌類が住んでいる。全部合わせると、人体そのもののゲノムより多いゲノムがあることになるらしい。そう考えると、人間は腸内細菌に操られているのでは、などと妄想したくなる。カマキリの寄生虫ハリガネムシは有名だと思う。カマキリの内臓に寄生し、成長する。良い頃合いになると、カマキリの行動を操って水辺に移動させる。そして自分は水中に戻って、繁殖行動に移る。同じように、人間も腸内細菌に行動を支配されているとしたら……。

 


というのはまあ考え過ぎで、共生関係なのだろう。互恵的、というか。長い年月の中で生まれた、驚異的、とも感じられるある種のシステム。考えれば考えるほど、どうしてこんなもの(人間というシステム)ができたのか、と驚かされる。

とは言え、いずれにせよ、意識できていることだけが全てではない、というのは近頃強く思う。これが行き過ぎると「オカルト」などと言われるエリアに脚を突っ込んでいくことになると思うのだが、一方で、人体に関して新たな発見が連なり、20年前とはまったく違う見方をしなければならない、ということが言えるのだろうと認識している。ひと言で言えば、「人体の仕組みは思っていたよりも1万倍複雑」という感じだろうか。

ヒトとその腸の関係については、例えば↓

 


ジャンケン大会の規則性は一つの例に過ぎなくて、きっと常に、あらゆるところで、無意識の学習を繰り返している。赤ん坊のころに歩けるようになるのもそうだし、自転車に乗れるようになるのもそういうことのように思える。そういう学びの繰り返し。意識と無意識のフィードバックループ。当たり前と言えば当たり前。

ただ、大人になると、思考や意識が勝つようになるというのが自分の感想。それだけに、無意識を意図的に重んじなければならない、という(わけのわからない)ことも思うようになってきた。

例えば英語を学ぶ時、どうしてもスピードというかコスパというか、ラクに速く学びたいと思う。つまり、理屈で考える。

しかし一方で、実際に英語が使えるということは、ほぼ無意識的なもののような気もする。そして無意識的な学習は、時間がかかる。だから、愚直に「量」をこなすことも重要だ。あえてその道を選ぶことも必要だ。

少し広げて自分を観察してみると、日々の行動や選択も、かなり無意識のうちに行われている。何を食べるかとか、本屋でどの本を手に取ってみるか、どんな服を着るか……、それほど意識的に考えてはいない。

前に少し書いた、「体が選ぶ道具」というのも、無意識的な働きのように思える。

notelets.hatenablog.com

 


単純に言えば、理屈とかコスパとか合理性とかじゃなくて、エモさ。それが、体が知っている「良きモノ」なのかもしれない。だとすれば、理屈をこねるよりも、渋谷あたりに行って若者に何かを学んだ方がいいのかもしれない。

あえて「分別ざかり」を捨てる。いや、分別ざかりと言われる年齢だからこそ、エモさを追っても、おかしな所に至らないで済む。そういうことも言えるかもしれない。

ノン・プログラマーのためのMacツールボックス:「考える道具」をどう作るか

今、個人的に気にしている、非プログラマMacの使い方のメモ。

主に考える系のタスクを想定している。自分はテキスト寄りのアタマなので、もしかするとブログを書く人にも有効かもしれない。

詳細はさておき、ざっくりとその要素を(でも長くなった)。アプリケーションだけでなく、人間の側の使い方なども含めて。

▼前提

おおまかに言って、Macは「外部足場」として扱っている。外側にある脳みそというか、記憶装置という側面もあるし、自分の頼りないアタマでは太刀打ちできないものを、装置の力に頼ってどうにかする場でもある。例えて言えば、コックピット。単なる外付けディスク、というわけではない。

……という考え方は、以下のあたりの書物に拠っている。つまり、現代のヒトは脳だけで考えているわけではなく、世界のさまざまなものを考える道具として使っている、という話。あのファインマンも、「わたしではなく、文字通り紙が仕事をしている」と言ったとか。

 

▼ハードウェア系 マンマシンインターフェイスというか

今のメインマシンはMacBook Pro 13in、2020の、M1が初めて入ったモデル。

まずはキーボードが重要。別になんでも書ける、打てるといえばそのとおりなのだけれど……、使っていてイヤなところがないことは重要。どんな道具でも、ストレスなく使い続けられることは、本当に重要だと感じている。

Mac本体のキーボード

本体のキーボードは、まずまず使える。この前の世代のMacBookはペチペチキーボード(バタフライキーボード)で、アレはついになじめなかった。

レイアウトはAppleのU.S.。こだわりがあるわけではない。ただ昔からこれでやってきてしまったので、変えるのも億劫。ただ、見た目はU.S.の方がすっきりしていていい。

▾ 外付けキーボード Apple純正

外付けキーボードは、リアルフォースとか太古のIBMとかメカニカルなんちゃらとか使ってきたけど、今はApple純正。それほど気に入っているわけではないんだけど、本体と外付けを切り替えても違和感が少ないのがいい。ただ、最近は良さそうなキーボードが増えてきたので、またなにか試してみようかとも思っている。

▾ ⌘英かな 入力言語切り替え

古のCommand + Spaceキーによる入力言語切り替えがやりづらくなって以来、左右のCommandキーで日本語英語を切り替えることができるツールを入れている。これはなかなかいい。誰でも、すぐに手になじむのではないか。

ei-kana.appspot.com

▾ 若干のキーカスタマイズ Controlの位置はゆずれない

Controlキーは、左手の小指の横、「A」キーのすぐ左にあって欲しい。Controlはテキスト入力で非常によく使う。カーソル移動にも使うし、変換の細かなコントロールにも使う。非常に重要な装飾キー。だから使いやすい場所に。通常はデフォルトが左下あたりになっていると思うが、これを変更して使う。Macのシステム環境設定から行えるようになっている(外付けでも、純正キーボードならこのへんの細かい設定で問題が起こりづらい)。↓↓


▾ モニタ

モニタはもちろん、広い or たくさんあった方がいい。鉄則、と言ってもいい。

が、時々、あえて本体だけで作業をすることもある。目の前のことにギュっとフォーカスするイメージ。まあこれは気分の話。

▾ マウス、トラックパッド

キーボードに比べて、こだわりは少ない。純正で十分、という判断。その昔はアレコレ試したが……、シンプルに保っておいたほうがいい。近頃はトラックパッドだけでも問題ない人がいるようだが、ちょっと理解できない。(その昔、PowerBookにはトラックボールが付いていて、あれはなかなか使えた覚えがある↓。誤植ではない。物理的なトラックボールがついていた。物理は、いい。)

Powerbook 150

▾ 仮想デスクトップ、あるいはExposé、Mission control……

使いこなしたら便利かも、と思うものの、自分の中で定まってはいない。だいたい、でかいモニタの効率には敵わない。一覧性がなくなってしまう段階で、あまり使い物にならない。「メール専用の画面」を作ったとしても、ブラウザと同時に見たくなったらどうするのだろうか?

これは個人的な意見だが、このあたりはきっと、Appleも認識しているの課題なのではないか。OSのメジャーアップデート時、ウィンドウの扱いの改善が毎回目玉トピックになっている(という印象)。

まあ、少数の、単体でのみ使うアプリケーションを開いておくウィンドウ、とかなんとか、誰もが思いつくことだけ。例えばSpotify専用ウィンドウ、とか。

▼テキスト入力系

ATOK

今はいろいろ選択肢がありそうだが、ずっとコレ。30年ぐらいになるのだろうか。他のも使ってみたことはあるが、細かな設定の具合が、ATOKを選ばせる。

その細かなカスタマイズはいろいろある。

確定文字の再変換。変換時のショートカット。カタカナ変換、アルファベット変換(1文字目だけ大文字、とか)、分節変更……等々をホームポジションでできるように。……とかなんとか、とにかく手数を少なく、ホームポジションから手を動かさなくても済むようにする。このとき、修飾キーがControlのことが多い。ということで、前述のControlキーの位置が重要になる。

ATOK組み込みの辞書

これはいい。ATOKのオプションで、いろいろな辞書が入力のインラインで使えるようになる。例えば「とる」という文字を変換しようと思った場合、どの「とる」なのか、変換しながら、用語事典を引きながら、正確なものを選択できる。あるいは広辞苑大辞林を引ける(この「引ける」も、かな書きと迷った。でも大辞林には「引」の字があたっていた)。

www.atok.com

スニペットクリップボード拡張ツール

Copyの履歴が残っていると、いろいろラク。これはもうどなたでも必須なのでは。

また、定型文というかスニペットというか、文章を登録しておけるものもある。これも個人的にはかなり重要だ。よく使うものを登録しておく。チェックリスト的なことにも使える。例えば議事録を書くときの項目立てorフォーマットを登録しておけば、漏れがなくなる。

単なる効率化ツールのようにも思えるが、実はかなり、考える系の作業にも使える。例えば、有名な発想のための問いである「オズボーンリスト」を登録しておいて、アイデアが欲しい時にエディタにペーストして参照してみる、とか(これは実例ではない)。

テキストエディタ

いろいろな文脈で使うことになる。メールや各種メッセージの下書きもここで行うことが多い。

特に個人的に重視しているのが、一覧性。通常、モニタは縦幅が狭い。よって、書いていくと、前に書いたものがすぐに見えなくなる。これが、思考にあまりよくない。エディタに限らず、例えばノートなんかでも、一目で見渡せることが重要だ。この点については、例えば↓

 

ゆえに、テキストエディタも、画面を分割し、一覧性を高めることができるものを使う。例えばCotEditor↓

coteditor.com

アイコンにあるカランダッシュ849がいいですね:-)

 

▼基本操作系

どのツールや使い方も、効率化につながる。しかし何より、「余計なことを意識に登らせない」効果が大きい。煩わされないこと。そういう意味では、OSレベルの操作も非常に重要だ。

コンテキストスイッチャー Command+Tab

Macならば、Command+Tabキーでアプリケーションが切り替わる。しかし、実はWindowsのような、「ウィンドウごとに切り替わる」挙動の方が好みだ。

その場合は、なにか一工夫をしなくてはならない。……が、今はやっていない。前に試したとき、どのアプリや解決方法もいまひとつだった。純正ショートカットのみの使用。

これを気にする理由は、もちろんアプリケーションやウィンドウを切り替えるとき、わざわざマウスに持ち替えたくないから。

ひとつのアプリ内でウィンドウを切り替えるときは、Command+Option+Tab。これは……、確か純正ショートカット。違うかも。

▾ カーソル移動に、カーソルキーを使わない

いや、カーソルキー、使う。なかったら困る(だからHappy Hacking Keyboardはちょっと使えない。そこまでGeekではない。……というか、カーソルキーを省くって……、ムリしてない? :-) )。 

しかし、ホームポジションから手を動かしたくない時があるのも確か。ということで、Control+Pなどで、カーソルを移動させる。ちらっと聞いたらご存じない方もいるようだったので、念の為↓。

・↑:PreviewのP
・↓:NextのN
・→:ForwardのF
・←:BackのB

この時、ControlキーがAの横にあるのが重要。Happy Hacking Keyboardもそうなっている。

▾ Spotlight検索

初めは「なんだかイケてない」とたいして気にもとめなかったMacのSpotlightだが、いつの間にか無意識の動作に組み込まれていた。主な使い道は、Web検索。結果まで一番速くたどり着ける。と思う。↓

①どんなソフトを使っていても、Command+SpaceでSpotlight立ち上げ
②検索文字を入力し、
③Command+bでブラウザWeb検索結果へ

……という感じ。この、Command+bというショートカットが手に馴染むことが重要。見ていると、「ブラウザに切り替えて、入力欄をポイント&クリックして、入力して……」と手数が多くなっている人が多いようだ。自分ももちろんそれもやるけれども、考える系タスクの時は特に煩わされたくない。

▾ アプリケーションを立ち上げるショートカット

よく使うアプリケーションは、ショートカットで立ち上がるorアクティブになるようにショートカットを設定している。どんな作業をしていても、半ば強制的にそのアプリケーションが立ち上がる。例えばCommand+Option+Eで、Evernoteがアクティブに、とか。フォルダを開く、というようなこともできる。ランチャー系はいろいろあるが、今はたまたま↓↓

macsoft.jp


▼ テキスト以上のなにか、のためのアプリケーション

たぶん、7割ぐらいの時間を、テキストエディタEvernoteのような、基本は文字入力をするためのツールを使っている。しかし、それ以外のアプリケーションを、考える系の作業で使うこともある。

アウトライナー

その昔、(大枚をはたいて)Omnioutlinerという美しいアウトラインソフトウェアを使っていた。これはいい。……と思っていたのだが、自然とフェードアウト。今もそれほど重視していない。

その本質は構造化、階層化、ブレイクダウン……ということだと思うのだが、たいていのテキストエディタでも、インデントしたテキストを扱える。それで済むことが多い。わざわざ「場」を変える必要は、今のところ少ない。

しかし、他人とアレコレ話すようなときに使ったりする。初見の人でも、その構造が見た目でわかりやすい、入れ替え操作にエフェクトがついて把握しやすい、などの些末な理由。WrokFlowyなど。

Markdownエディタ

これも、自分ひとりではあまり必要性を感じていない。なにかをドキュメント化しておきたいときなどに使う。いや、最近は使ってないか……。例えば↓。ログイン等の手間がないので、さっと打合せをしながら使ったり、いろいろな人に即興的に加わってもらったりするのに便利。まあ共同作業はGoogleドキュメントなんかでいいんだけども。

例えばHackMD↓

hackmd.io

▾ 作図、ダイアグラム、チャート……

まあなんか、そういう、グラフィカルなもの。今はいろいろいいツールがありそうなのだが、使いこなせていない。だいたいExcelやらPowerPoint、もしくはGoogleスプレッドシートなど、なじみのあるもので済ませてしまう。

それでも時々使うのは、階層化したテキストからマインドマップ的なものを自動的に作ってくれるツール。自分が考えるというよりは、やはり誰かと考える時。あるいはプレゼンテーション的な場で、見た目を良くするために。Text2MindMap とか↓。

tobloef.com

▼外部脳:PKM、ChatGPT、カードボックス、ツェッテルカステン、Copilot……

Evernote or Notion

こういうソフトウェアのことは、なんと呼べばいいのだろうか。ノートツール? PKM? まあ、Evernoteのようなもの。

今は基本的にEvernote。いろいろ不満と不安はありつつも、有料ユーザ。対抗馬はNotionか、あるいはobsidianか……。これまでの蓄積が大きいので、乗り換えるハードルは高い。

Notionもいいと思うのだが、テキストの扱いが……。その設計思想を飲み込めないでいる。つまり、通常のテキストエディタで扱う「改行」ではなく、「改段」が主役なこと。インラインとブロック、というのがわかりやすいだろうか。これのせいで、別のアプリケーションにコピペしたり加工したりする時に、レイアウトが崩れてしまったりする。気持ちよくない。

Notion内で完結させるのならそれでもいいのかもしれないし、なにか対策があるのかもしれない。が、いずれにせよ、そういう基本的な部分になにか気を使わなくてはいけないのは、あまり気持ちよくない。

▾ ChatGPTなどのジェネレーティブAI

近頃は、AIも考える系の仕事のツールになってきた。あれこれ試している。ひとりブレストみたいなことを中心に、まあひらめいたらやってみる、という感じ。Notionにインラインで組み込まれた「Notion AI」も使ってみている。

んまあ、しかし、いずれにせよこれから。

きっと、日常的に使うツールに組み込まれて、だれもが普通に、それと意識すらすることなしに使うようになっていくのだと思っている。それが仕事だけでなく、なんでもかんでもAIが一枚噛んでくるようになる。のかもしれない。そんな世の中がどんなものになるか、ちょっと興味がある。(この記事のタイトルと「記事の概要」は、ChatGPTに書いてもらった。誇大広告だったらすみません)

▾ ブラウザ

ブラウザは、未だにしっくり来ていないところがある。いつもフワフワな作業をしている感じ。

メインはSafari。一時期、出張仕事がやたらと多い時にChromeのバッテリー消費の激しさが気になって以来、Safariがデフォルトになっている。かなり少数派だろう。

使い方は、それほど洗練されていない。アドブロッカーは入れている。「タブグループ」という機能で、開いていたセッションを保存しておく、ということはする。あとは……、まあ適当に。

Chromeもサブとして。アドオンが強力なので、使わないわけにはいかない。

そのChromeに、「ウェブページをひとつのアプリケーションとして切り出す」機能がある。これはけっこういい。よく使うサイト、例えばGmailのページを、OSレベルのアプリケーションのように扱える。Command+タブで切り替えたり、Launchpadの中に入れたり、あるいはブラウザを閉じても常に表示させておいたり……。

ブラウザというかウェブページの欠点のひとつは、「消えてしまう」ことだと感じている。かなり特殊な認識だと思うけど。言い換えると、固定されていない。すぐに消えてしまう。一時的なものでしかない。

これをアプリ化することで、もう少し、存在感が出てくる。無意識の中で、扱い方が変わってくる。GmailやWeb版のSlackとか、まあそういった操作を多く行うもの、またよく使うものに関しては、アプリ化しておくと自分の世界観みたいなものにマッチする。

似たような方向性で、sidekickというブラウザもある。これはサイドバーにそうした「操作系」のWebページを保存しておくもの。だから、世の中には似たような認識を持っている人もいると思うのだが。

▾ オンラインストレージ

DropBoxやらなにやらは、まあ使っている。しかし、自分のアタマはあくまで「ローカル」で動いている。スタンドアロンMacのつもりでいる。……というのは、かなりオールドスクールな感覚なのかもしれない。

この感覚を説明するのは難しい。例えて言えば、バッグに近いだろうか。化粧バッグとか大工の道具箱とか……、そこに、必要なものが揃って、整理されている。それが気持ちいい、というか安心するというか頼もしいというか。そんな感覚を、Macにも持っている。

もちろん、Macの使用中はほぼ100パーセント、オンラインになっている。しかし……、あくまで、自分のMacはこのハードウェアがすべて。オールインワン。これ自体でパーフェクト。これさえあればいい。……そんな気持ちを持ちたい。前述のobsidianはローカル志向のようだけれど、もしかしたらその開発者は同じ世界観を持っているのかもしれない。

他にも細かいことはいろいろありつつも、この辺にしておく。

あまりマニアックにやり過ぎてしまうと、むしろそれに縛られて、自由が利かなくなったり、知らないうちに狭まっていたりする。ちょっとした不具合でストレスがたまったりする。あるいは、ハイテクを導入しても、結局、指(≒無意識)に馴染まなかったりする。ので、ほどほどを旨としている。「パーフェクト」は幻想に過ぎない。

しかし、こうして書き出すと、我ながらなかなか面倒なヤツだと思ったりもする。そういうことじゃなくて、考える内容にこだわれよ、とかなんとか。……まあでもこれはそういうもの。こういうことが気になる性質が一部ある。配られたカードで勝負するしかない。

そもそも、下手の考え休むに似たり。たいしたことを考えているわけでもない。残念ながらSupremeなアタマは持ち合わせていない。しかしそれでも、多少はマシな結果が出せたら、どなたかの役に立つかもしれない。……というようなことを考えていたら、今の時点ではこうなっていた。そのメモ。

暖かくなってきた。何を着ようか。わからない。


ちかごろ、何を着たらいいのかわからない。(いや、正直に白状すれば、昔から。常に自分の服のセンスには疑問を抱きつつ生きてきた)

もう少しすると、いわゆる季節の変わり目。暖かい日が増えてきて、何かをごまかすように着ていたダウンジャケットに頼ることができなくなる。じゃあどうする。……わかんない。去年はいったい何を着ていたのか。いや、そもそも、季節など関係なく、どんな服を着ればいいか、いつもわからないでいる。

とは言え、もうそれなりの年齢になった。昔は、ちょっと良いものを着たいと思ったりもしたけど、今はもう、快適で、見苦しくなければいい。

 

▼しかし、あまりにテキトーに買ったりすると、妙にいまどきのデザインだったりして、気恥ずかしい。例えばベーシックなTシャツを買ったつもりが、今風の、大きめのシルエットになっていたり。何も知らないで、そういうのを着ているのはこっぱずかしい。流行に乗るのもなんか違う。

「自意識過剰、誰もお前のことなんて見てへんわー」、というのはまったくその通り。だと思うんだけど、まあ、そう感じる自分がいるのだからしかたがない。まったく他人の目を気にしない人もいるだろうが、そういうタイプに生まれたわけではなさそうだ。

なんだかロゴがでかい服も多い。アウトドアブランドのものとか。あれはなんなんだろうか。よくわからない。ロゴを付けないとなんだか物寂しいというのはわからなくもないが、しかし、ね。やっぱりどこかこっぱずかしい小市民。

ロゴ、ということでいえば、ハイ・ブランドのもちょっとよくわからない。さっきも「LV(どうだ!)」みたいなバックルのベルトをしている人を見かけたが、どういう価値観なのだろうか。「わたしはハイ・ブランドを身につけるのにふさわしい人間なのだ」ということだろうか。自信がおありで羨ましい。自分など、その境地には一生達することができないだろう。

詳しくないけれども、コム・デ・ギャルソンなんかはあまりそういう主張をしないので好ましい。しかし、複数のギャルソン製品を同時に身につけている人は、若くして中国でひと山あてた人かな、と思うようになってきた。それか、アート系に片足を突っ込んだ起業家か。すばらしい。クリエイティヴでイノヴェイティヴな、新時代の経済は任せた。儲けてくれ。

ナイキなんかの、派手なスニーカー。あれもわからない。いや、わからないというか、さすがナイキ、昔からマーケティングが上手いよね、という感想。聞けばン十万で限定もののスニーカーを求める人がいるそうだが、ホント、世の中はおもしろい。そうしたマーケティングに乗っかる人も、楽しんでいらっしゃって慶賀の至り。いや、スニーカーも、もはや「文化」なのかもしれない。「土用の鰻」は平賀源内のマーケティング用のコピーライティングだったそうだが、それも今や文化。

安価なもの、つまり自分にも買えるものでも、油断しているとおかしなことになる。例えば、コピー品、とでもいうのか、あるメーカーが創りだした流行のスタイルを、それっぽく安価に作り直したフォロワー商品みたいなもの。ジェネリック商品、とでもいった方がいいか。そういうものを身につけてしまうことがある。しかしこれも、ある段階を過ぎれば「ベーシック」となる。その境界線はあいまいだ。何より自分の情報力・センスでは、区別がつかない。

機能一辺倒、みたいな服装をする人もいる。たいてい大きなリュックをしょって、ストラップとかヒモとかが体のあちこちから出ていたりしてゴテゴテした印象の人たち。もちろんなんの文句もないが、個人的な感想を言えば、ゆとりがない感じがして窮屈な印象を覚える。けど、もちろんそれはこちらの感想に過ぎない。きっと機能を追求する楽しみがあるのでは、何か別の次元の目的があるのでは、と想像する。

 

▼……とかなんとか、そんなことを言っていると、着る服がなくなる。今は、冒頭に書いた通り、快適であればいい。しかしあえて理想を言うならば、「キマっているじじい」な服に憧れる。

キマっているというのは、けっして某雑誌が作り上げたイケてるオヤジ像、みたいなことではない(あれは見事な仕事だったと思うのだけれど)。

いや、確かに、往年のショーン・コネリーやらダニエル・クレイグのようなじじいになれるなら、それはそれで好ましい。が、たいていの日本人には難しい。ように思う。

なにより、不思議なもんで、日本人のオヤジがおしゃれにバリっと決まっていると、なんだか嘘くさい。理由はよくわからない。キメキメのおじさんを見ると、あまりお友達になりたいと思わない。いや、上に挙げたようなイギリス紳士風味のスタイルならまだしも、イタリアかフランスかのラテン風味だと特にやばい。……いやまあ、これはこちらの偏見、思い込みなんだろうが。

そういうのではないく、なんというか……、普通の服を着ているし、おしゃれでもなんでもないが、キマっている。そういうのが理想。これがどんなものか、言葉でうまく表現したいのだが、難しい。

サイズが合ってないとかみすぼらしいというのはもちろん違う。汚れているのも避けたいが、しかしそれが「作業着」ならばむしろ少しは汚れていて欲しい。もちろんGUやらユニクロでいいのだが、同じような服を着ている人が多いだけに、「着せられている」感じになってしまうことも多い。

体に服が馴染んでいる。サイズやら丈やらも適切。華美でない。その服を着ていることが、納得がいく。周囲にも馴染んでいる。自然である。かつ、ビンボくさくない。……そんなことになるか。

言ってみれば、「板に付いている」というのが近いのかもしれない。その人の肉体的条件と、居場所というか環境みたいなものと、服が調和している。役者と舞台が、しっくりきている。……そんな装いが、理想。たまにそういう人を街で見かけると、楽しくなる。

そう考えてみると、前に挙げたロゴがでかい服も、「LV(どうだ!)」のバックルもあれこもこれも、それにふさわしい場所、というものあるのかもしれない。そうしたスタイルがしっくりくる場所があるのかもしれない。

……それってもしかして、いわゆるTPO?

いや、TPOという言葉には、「ルール」な感じがつきまとう。束縛や抑圧を感じる。そういうのは好ましくない。そうでなくて、板についているかどうか。その人の「スタイル」と言ってもいいのかもしれない。やはり理屈では説明できない。ただ、「見ればわかる」。そういうもののように思える。

エイヤ、を学習し直す遊び


何かを選ぶのは難しい。年々、難易度が上がっている気がする。

その原因は、もちろん情報の増大。

例えばカメラを買うとする。昔は、カタログやら店員さんやら雑誌やら、限られた情報源から選ぶほかなかった。

しかし今は……、個人のレビューがある。SNSもある。比較サイトがある。そのカメラで撮った写真を何万枚も見ることができる。みなさんがいろいろなことをいろいろなところで言う。メーカー側の情報発信も進んでいる。デジカメの詳細なスペックやらなにやらを実験してデータ化しているサイトもある。……難しい。

もちろんそれが良いこともあるし、一方で、むしろ悩みの原因になることもある。

「選択肢が多すぎるとかえって購買意欲が下がる」と明らかにしたのは、有名なシーナ・アイエンガー。選択肢だけでなく、情報も同じようなメカニズムがあるのではないだろうか。

そもそも、選択や意志決定を行うとき、ヒトはどうするか。

大きく分類してみれば、
・理性による
・直観による
……と二分できそうだ。

普通、理性による判断、という道がある。例えば購入する本を選ぶ時、何かの受賞作なら読む価値がある可能性が高いだろう、とか。このテーマを学ぶなら、この本を読んでおかないといけない。いろいろわかっていないから、手堅く、岩波の入門書から……等々。

その選択のメリットとデメリットを書き出して比較するというのは有名な手法。あるいは「意思決定の科学」みたいな分野もある。軍事研究、戦略みたいな分野も、おもしろいかもしれない。

もちろん、自分にとって「安いもの」を選ぶのなら、そんなに大げさにかんがえなくてもいい。そういう場合には、自分の直観を信じる、という道も使えそうだ。「コレだ」、と感じるものを優先する。行ってみれば、エモい道。なんとなく「これかな」でもいい。グッドバイブス優先。「えいや」の道でもある。

普通、ヒトはこの二種類の選択をミックスして行っているように思う。有名な、システム1とシステム2の話かもしれない。

個人的に気になっているのは、近頃はどうも、自分は理性が勝ちすぎているのではないか、ということ。

もちろん「えいや」は失敗することも多い。だから理性を働かせる必要がある。比較サイトはすごい。みなさんの意見をお聞きして、アレコレ考えたい。もちろん、使えるリソース、つまりお金や時間は限られている。良いものを選びたい。後悔したくない。

だからアレコレアレコレ検討するのだが、前述のシーナ・アイエンガーの指摘の通り、結局のところ買えなかったりする。迷って、面倒になって、放り投げたり。

納得しきって買ったとしても、気分がアガらないというか、ちょっとつまんないな、と思ったりすることもある。カメラで言えば、「思ってたのとちょっと違った」というのは、いくら検討してもある。あるいは、買った後になって、自分が本当に欲しかったものに気付くこともある。

コスパ、タイパというような言葉を聞くことが増えたけど、それも理性寄りの判断の結果、だろうと思う。限られた時間とお金をできるだけ有効に使うための、冷静な判断。

それが行き過ぎるとどうなるかと言うと、まあ、楽しくない。

理性だけではつまらない。もうちょっと、エモさ優先というか、直観とか気持ちとか、「楽しそう!」という気分とか、そういうものを優先させないと、枯れてしまうのでは。……などと思ったりする。

もちろん、こういうのは性格次第だったり、その時の文脈次第だったりする。いつも、考えてその結果つまらない、というわけではない。しかし、情報がある分だけ、冷静な判断をする圧力が働く。だから、あえて直観を生かす。そういうのもおもしろいかもしれない、と思っている。改めて、えいやを学ばなくてはならない。

楽しさ、なんていうふんわりムードとは無縁な仕事でも、しかし、自分がしっくりくるやりかたじゃないと結局はうまくできない。実行できない。もっともこれは、「えいや」というよりも「本性と選択のマッチング」という話かもしれない。