Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

スマホってなんなんですかね。みなさん、お好きですか?

年々、スマートフォンが気持ちよくなっていく。

いや別に、スマホを使うとバカになるとか、そういう高尚なことを言いたいわけではない。ただ、楽しくないというか、しっくり来ていないというか。iPhone3G以来、それなりにスマートフォンを使ってきた。新モデルが出るのをわくわくしながら待ったこともある。Androidも何台か。仕事にも関係があるから、それなりにいじってきたように思う。しかし、ここ数年は……。

理由はいくつか思い当たる。


例えば、街を歩いていて、スマホを使っている人の、美しくない光景を度々目にすることとか。いわゆるスマホ歩きをして道をふさいでいるとか、電車の中でスマホに夢中になって、席を譲るべき人にまったく気付かないとか。スマホでバカになるかは知らないが、公共の場で行動の質が下がるのは間違いないだろう。危険とか迷惑というレベルに至らないとしても、なんだかどんくさい、と思ってしまう。

誰かを非難をしたいわけではなく、「もしかすると自分もそうなっている時があるかもしれない」という美しくない感じ。ひと様にまったく気を使えてない感じ、とでも言うべきか、あまりそういうのは自分として好ましくない。周囲の人には一定の敬意を払いたい。もちろん程度の問題だし、スマートフォンに夢中になっている人には、きっと何かその人なりの理由があるのだとも思うけれども。

このへんは、持って生まれた性格によるのかもしれない。他人のことをどこまで気にする性質か。気にしないで自由にできる人は、その瞬間、その時はいいかもしれないが、長い目で見るといろいろ損をしているかもしれない。気にしすぎる人は、いろいろ辛いけれども、むしろ暖かい人間関係を持てるのかもしれない。良い悪いを言える問題ではないように思う。いずれにせよ、他人に敬意を持てているかどうかが重要な気がするが。


また、スマートフォンの「通知マシン」な面もある。あれこれ通知してくる。集中を妨げる。

もちろん通知をオフにすればいい話だけれども、それだけでは済まない。「通知」がある前提の世の中は、そのスピードで仕事が動くことになる。Slackを使って仕事をしているなら、その通知が皆の手元に届いている前提になる。皆がスマートフォンを持っていて、いつでもどこでもメッセージやらメールやらを見られる、という前提で動く。ということは、そういうスピードで対応を期待されてしまう。

通知に限らず、スマホ時代のスピード感、ということか。それがいいものであると認識する人も多いだろうが、メリットもデメリットもあり、それ自体がいいことでも悪いことでもないのでは、と個人的には思う。単純に、拙速という言葉を使いたくなる状況も多い。速くても遅くても、悪いコミュニケーションは、単に悪い。ただ、もちろん、速すぎれば働く人のプレッシャーは上がっていく。自分もそのプレッシャーを感じて、イヤな感じを覚えることも多い。大げさに言えば、現代のパノプティコン装置。


近頃はたいていPCの前にいる、という状況も関係しているかもしれない。近頃はオンラインでできることが増え、またコロナだなんだと言って、PCの前にいる時間が増えた。スマホがいくら便利と言ったって、たいていのことは原理的にMacの方が精度が高い。と思っている。スマホで仕事が捗る、という人もいるようだが、自分の仕事の場合、スマホのメリットは本質的なものではない。たいていの場合、単に便利、というレベルにとどまる。結局、スマートフォンを使わなくてはならない状況の時に、そのデメリットだけが目立つ。

(……という感想は、自分の仕事が、もともとコンピュータがある前提の仕事だからかもしれない。これまでコンピュータが使えなかった仕事環境、例えば配送の仕事とか、そういう場所では、スマートフォンがとても有効に使えることはあるだろうと思う。それで配送の仕事をする人がいい感じになったのか、あるいは忙しくなっただけなのかは知らないけれども。あるいは、人にふんわりした指示を出せばいいだけの人も、スマホが「ビジネスを加速させる」のかもしれない。知らんけど。)


老眼、という物理的条件もある。これが避けられない現実:-0 ちょっとした見づらさでも、小さな画面を見るのが無意識レベルから楽しくなくなるように思う。人口動態的に、ここからが老眼文化の本番になるだろう。

近頃のiPhoneが美しくないと感じてしまうのもある。プロダクトデザインにこだわりがあるわけでもないのだが、それでも……、なんだか。あの盛大に出っ張ったカメラ部分が気になるのか。単に、街で多く見かけるものは、なかなか美しいと感じづらい、というだけの話かもしれない。当たり前になってしまって。

大前提として、新しい機種を買ってもできることは別に変わらない、というのもある。つまりスマートフォンというものがもはや成熟した、みたいなこと。もちろん何か新しい機能が追加されているのはわかるけれども、本質的にはもう変わらない。わくわくするものではなくなった。楽しさというよりも、生活用品。服、例えば新しいジャケットを買うのは楽しみだけど、下着を買うのはたんなる出費。……みたいなこちらの捉え方の問題。

……などとぐだぐだ書いていて、われながらイヤになってきた。じゃあ使わなきゃいいじゃん、みたいな。そりゃそうだ。

でも、何ごとか言いたくなるのは、その昔にスマートフォンにわくわくした経験があるからかもしれない。机という呪縛から逃れて、どこででもコンピューティングできる未来。かつてのDynabook思想(アラン・ケイの方。東芝のパソコンではないやつ)的なことかもしれない。未来を開くコンピューティング。その、よくわからないけれどもわくわくする未来。……あるいは、いわゆる「スティーブ・ジョブズの現実歪曲フィールド」の中にいたのかもしれないけれども。

いずれにせよ、スマホを使いこなす側から、使われる側になってきた、ということだろう。そろそろ、スマートフォンに何かを期待する時期は過ぎたのかもしれない。いや、もうとっくに、なのかもしれない。

ぺんてるエナージェルは、青インク+クレールフォンテーヌ

ノートとペンの相性についての個人的な話。

先日、「エナージェル ユーロ」というぺんてる社製ボールペンがいいんだよね、という話をした↓。

notelets.hatenablog.com

 

これを見たらしい友人が、「俺にはイマイチだった」と伝えてきた。ははは。別にクレームということではなく、世間話のついでに、ぐらいの感じ。

それで、重要な前提を書くのをすっかり忘れていたことに気付いた。ので、補足してみる。


▼エナージェルは青、そしてクレールフォンテーヌ

エナージェル ユーロは、0.7mm。という要素までは書いた。さらにここに条件みたいなものを付け加える。それは、

⇒インク色は青、そして紙はクレールフォンテーヌ

……という、ごくごく個人的な好みの話。

どういうことかと言えば、単に、クレールフォンテーヌのノートに青インクで書くと、書いた紙面がなんだかそれっぽい、しっくり来る、落ち着く……というような話。好み。

クレールフォンテーヌというのは、フランスの大手文房具メーカー。手帳のクオバディスとか、メモのRHODIAとかのグループらしい。

で、ここで言うクレールフォンテーヌのノートとは、例のRHODIAと同じ、ベラム紙+薄紫色の罫線の紙を指す。↓こういうの(左はRHODIA。同じ紙、同じ罫線の色)。

 

公式サイトの商品ページ↓

アージュバッグ 3ポケット付ノート A5 クオバディス・ジャパン オンラインショップ

 

写真ではわかりづらいかもしれないが、かなり目立つ、紫色の罫線。この、言ってみれば紙面が「うるさい」ところに、太めの青インクでザクザクと書いていく、そして書いたものがある種のムードを生み出す。そのフィーリングがしっくり来る。

このフィーリングをうまく説明したいのだが、なかなか難しい。上記のサイトにあるように「美しいノート」なのかもしれない。バイオレットとフレンチブルーのコンビネーション。ある種のバランス、統一感、まとまった感じがあるように思える。あるいは、自分は美しい文字は書けないのでアレだけど、それがむしろ実践的で頼もしい、というニュアンスもある。

この罫を、うるさいと書いてしまったけど、同意見の人も多いだろうと思う。日本製のほとんどノートよりも目立つ。しかし、そこに、さらにうるさい太い青を加えることで、バランスが取れるのかもしれない。

実際に青インク+クレールフォンテーヌで書いた写真でも載せようと思ったけど……、自分の字ではまったく説得力がないので、止めておく。「clairefontaine blue ink」などと画像検索すると、何かしら出てくるものと思われます :-)

 

▼なんでそうなるのか妄想してみる

聞くところによると、クレールフォンテーヌの本国・フランスでは、黒ではなく青インクを使うことが普通らしい。そして、漢字のようにこまかく書く必要がないので、太めのペン先が好まれるようでもある。通常、ヨーロッパ製の万年筆を日本語用に使おうと思うと、日本製のものよりも1〜2段階細い表記のモデルを選ぶことになると思う。

さらに言えば、クレールフォンテーヌのベラム紙は、太めの万年筆にちょうどいい。しっとりとして滑りすぎず、なんとも言えないいい書き味になる。いい。パイロットのカスタム74なら、Mとか。逆に、FやEFといった細めの万年筆だと、ちょっと引っかかり過ぎるような感触がある(と言っても自分の手持ちの万年筆に限られた話。たくさん試したわけではないので、違う感想の人も多いと思われます)。

つまり、クレールフォンテーヌのあの紙&うるさい罫線はそういう使い方を前提にしている。太めのペンで、青インクで使う想定でデザインされている。自分の、0.7mmエナージェル青という好みも、それほどハズしてはいない。……正解かどうかはわからないが、遊びで、そんな推測 or 妄想をしている。

逆に日本のツバメノートやコクヨのキャンパスノートに、太めの青で書くと、かなり文字の方がうるさい感じがする。なんというか、嘘くさいというかそらぞらしいと言うか……。基本的に「静か」な日本のノートには、黒インクが合うように感じる。

 

正直に言えば、別にそこまでこだわってはいない。基本的に、手近にあるもので書く。前述のように美しいノートなど作れないし、別にそこにはこだわっていない。それに上記の「フィーリング」みたいなものはちょっとしたことで変わる。ごくあいまいな話。

けれども、紙に、また自分の書いたものに何ごとかを感じている自分もいるのは間違いない。で、しっくり来るものには、何か理由がある。しっくり来れば、実用上も捗る。……そんなことも思っている。

終わらせる、あるいはパンツ2枚捨てること


何かが行き詰まっていたり。うまくいかなかったり、やる気が出なかったりする時。

そういう時、思う存分もがく or あがくのもいいと思うが、「終わらせる」のもいいのではないかと思う。子どものころ、新しいノートを買ってもらうと妙にやる気が出たりした。それと同じ。例えば……、

 

▼本を読んでいて、いまひとつグっとこなくて、つまらなくて、進まなくなったら、終わりにする。その先は読まない。あるいはざっと目を通して、読んだことにする * 。いったん本棚や段ボール箱にしまってしまう。読みかけの本をぜんぶ片付ける。そして新たな気持ちで、小躍りしながら本屋さんに行く。

* 以下を参照のこと……。
 『読んでいない本について堂々と語る方法』https://amzn.asia/d/8wnyEoe>
 『積読こそが完全な読書術である』https://amzn.asia/d/1SkNz1w

 

▼その作業中のファイルたちを、いったん「古い」フォルダにまとめて、新たにテキストファイルを一枚作って、そこからやり始める。

それまでの作業ファイルは、いったん置いておく。見えなくしておく=終わらせて、そしてゼロから始める。できれば顔を洗ってくるとか、新しくお茶をいれるとか、そんなことをして。新たな気分で、また取り組んでみる。古いファイルを参照したくなるけど、それはちょっと後にする。

非効率に思えるかもしれないが、しかし、一度自分が通った道ならば、意外に速く進んだりする。

 

▼PCやスマートフォンを買い替えて、ゼロから構築し直してみる。余計なアプリやウィジェットを捨てて、本当に自分が必要な、ムダのない、快適な環境を作り上げる。後で必要になったら、また入れればいい。

壊れる前に新しいマシンにすれば、いざというときには旧環境を使える。復旧できる。心置きなく新しいものを導入できる。2年に一度、とか、決め事にしてもいいのかもしれない。

 

▼同様に、アプリケーションを終わらせてもいいかもしれない。Evernoteを終わらせる。別のノートテイキングのアプリケーションを使い始める。サラの状態からやってみる。それが「重い」とするならば、ブラウザのブックマークを整理したりしてもいいかもしれない。

 

Twitterのフォロワーを整理してみる、というのもある。その昔、なんとなくフォローしたけどもはやなぜフォローしたか覚えていないアカウントは必ずある。もはや興味がなくなったテーマのアカウント、更新が止まっている人……等々、整理して、今、本当にGood Vibrationな or 必要なアカウントのみをフォローして、また始める。心配な人には、フォロワーのリストをダウンロードしておけるサービスもある。

その他のSNSや、RSSリーダー等も同じ。デジタルツールは、放っておくとどんどん情報が蓄積してしまう(雑誌の定期購読と比べてみるとわかる)。だから、すっきりさせておくタイミングがあった方がいい。

 

▼その、紙のノートを新調することもよくやる。あれこれネタ帳 or 日誌的に使っているノートを、新たなものにしてしまう。あるいは、新たなことを始めようと思ったら、それ専用のノートを新しく1冊用意する。1970年代の評論家(?)の植草甚一が、そんなことを書いていた。楽しい一冊。https://amzn.asia/d/5DOs8DG

 

▼冷蔵庫の中身、みたいな生活のことでもいいかもしれない。買ったりもらったりしたが、使っていないもの。もったいない、と感じて捨てられなかったモノ。そういうのを全て終わらせる。服、下着、靴……のようなものもある。今、必要なものを挙げてみる。その上で、不要なものを処分する。襟の伸びたTシャツとか、ユルユルになったパンツとか……、捨てる。まだ着られるものなら、寄付したり売ったり。そしていったん、自分の着るモノをシンプルにして、全て把握し直して、コレでいい、と納得できるところまでもっていく。そのうえで、新たにまた必要なものを加える。

そういう生活のことだったり家のことだったりは、片付け術みたいなものをいろいろな人がいろいろなことを言っている。参考になるのではないか。その最も大がかりな行動が、引っ越しかもしれない。

◆◆◆

 

いずれにせよ、そうした、普段の生活や仕事でかかずらわっているなにかを、終わらせる。リセットする。リニューアルする。楽しみでもなく、成果も出ず、ただ過去からの流れで存在しているようなもの。惰性。沈滞。鬱積。そうしたものを終わらせる。

 

▼もったいないとか面倒とか

確かに、その作業はエネルギーがいる。もったいないとか、まだ使えるかもとか、昔好きだったから捨てるのにはしのびない、と思ったりする。あるいは単に、面倒。

そんな、その気にならない時は、別にやらなくてもいいと思う。

でも、小さく始めてみるのもいいかもしれない。例えば洗面台の、今はもう使っていないようなものを捨てて、ついでに掃除してみる、とか。

 

▼生まれ変わり、という知恵なのであるなあ

ある意味、生まれ変わりの儀式、と言えるのかもしれない。それまでの重荷を下ろして、新たな自分を始める。エネルギーを消耗させる過去を横に置いて、新たに動き出すことにエネルギーを割り当てる。

企業でも、配置転換や昇進といったシステムで、終わらせて、生まれ変わるタイミングを意図的に作っている。

人の生には、昔から、節目がデザインされている。入学や卒業、就職、結婚……等々。引っ越しに関して言えば、その道にとりつかれていたのでは、という偉人達の話も聞く。永井荷風江戸川乱歩、ベートーベン……おそらく、そういう生まれ変わりの作用を、創造することに使っていたのではないか。

その昔の人々も、そういうことをしていたように思える。例えば武家の男子は、よく改名した。あるいは元服という儀式で、新たな役割と自覚、人格を与えられる。それが組み込まれていた。

宗教の世界でもある。例えば禅僧は、決まった日に選択をし、頭をそり直して……と、リフレッシュするタイミングが修行に組み込まれている。そもそも、僧門に入ることがもう生まれ変わり。「禅とは、巧妙に設計された精神の訓練法である」と看破したのは梅棹忠夫(うろ覚え……加藤周一だったかも)。

民俗学者宮田登によれば、武家や僧だけでなく、市井の人々の祭りや各種の儀式にも、生まれ変わりの意味があるという。

 

 

だいたい、週とか月とか、あるいは二十四節気とか、そういうものも、気分を変えるためのものでもあるだろう。聖書時代からの知恵、と言えるかもしれない。

神話の研究者で、『スターウォーズ』のネタにもなったというジョーゼフ・キャンベルは、インドの例を挙げている。

"インドには 、ある段階から別の段階に進むごとに 、服装をすべて変える 、自分の名前さえ変えてしまうという伝統があります 。私は教職を離れるとき 、新しい生活スタイルを創造しなければならないと自覚していましたので 、いまのインドの伝統にのっとって 、自分の生活に対する考え方を一変させました 。"

 

 

◆◆◆

 

逆から見れば、終わらせるということは、新たなことに集中する、ということにつながる。

集中が、何ごとかをなすための第一条件だと、年々強く思うようになってきた(「集中」ではない)。片手間でできる仕事はそれなりのものに過ぎない。

そのために、終わらせることができることは終わらせる。だいたい、世の中はそうやって勝手に終わらせることができないことがほとんどなのだから、自分のことぐらい。

そのうえで、次へ行く。「重たい」ことができなかったら、髪を切るとか風呂の掃除をするとかパンツを2枚捨てるとか、本棚から処分する本を1冊抜き取るとか……、なんでもいい。


……などと、駄文を書いてみた。なぜなら……、そう、年末の大掃除が面倒で気分がのらないから。パンツ2枚捨てたところで手が止まった。ので逃避。……斯様に、生活は難しい。南無。

 

オフィス仕事の難易度が高すぎる(解ナシ)


とある知り合いと話していたら、その人のオフィスでは、ブラウザを自由に選べない、という話になった。その他にも制限がいろいろあるという。会社的に、何かご都合があるのだろう。

まあそれならそれで仕方ない、と感じる反面、そういうオフィスでは働くのが難しい、難易度が上がるのでは、とも思う。

 

そもそも今は、オフィス仕事の難易度が高すぎる。……と感じている。コミュニケーションや情報の構造が複雑過ぎる、と表現すべきか。別の言い方をすれば、認知負荷が高い。

現状、まずもって情報の在りか or 出どころがややこしい。散らかっている。電話とメール、対話に加え、SlackやらグループウェアやらBacklogなどのコラボレーションツール、もしくはプロジェクト管理ツール(というのか)等々。あの人はなんて言っていたんだっけ、それってどこにあるんだっけ? この企画の要件はどこに整理されているんだっけ? そもそも整理されているんだっけ? 整理しようとあれこれ見てみても、本当にこれで網羅していたっけ? ……等々。難しい。

そしてそれらが、主にブラウザで開かれる。社内システムはもちろんブラウザ。ドキュメント類もブラウザで開くことが多いし、Dropboxなどのストレージにもブラウザ経由だったりもする。DXという錦の御旗のもとにSaaSと呼ばれる、ブラウザで使うウェブサービスが導入される。だいたいメールもブラウザで開く人が多いのでは。つまり、タブなりウィンドウなりがごちゃごちゃばらばらと開く。

……というのはデジタルがらみの業界の話かもしれないが、まあ、世の中全体として、ホワイトカラー仕事においては、ブラウザを中心としたスクリーンでの作業がよりいっそう重要になってきている、というのは同じことだろう。

 

そんな状況で、ブラウザひとつ自由に選べないとなると、なかなか厳しい、と思ってしまう。ブラウザはまあいいとしても、根本的に、自分のコンピュータに自由度がないというのは……苦しい気がする。

コンピュータは、単純な道具というよりも、「外部脳」とでも言うべきもののように感じている。あるいは「外部足場」とか「体と一体になった道具」とか。ヒトの「認知システムの一部」と言ってもいいかもしれない。アンディ・クラーク的に言えば、われわれはすでにビットの世界につながったサイボーグ。

 

だから、情報をうまく扱おうと思えば、コンピュータをあれこれいじることになるように思う。自分なりの使い方を見いだすことになると思う。その程度はさまざまだろうが、いずれにせよ多くをコンピュータに頼ることになる。

ブラウザもそのシステムの一部で、こだわりや、使いやすい使いづらいがあるだろう。アドオンのようなものを入れたい人も多いはず。用途によってブラウザを使い分けたいとか、作業のコンテクストのスイッチングのためにあえて複数のブラウザを使いわけるとか、そういうこともあるだろう。

もちろん、かならずしも複数のブラウザが必要だというわけではない。しかし、ブラウザが選べない、という状況が象徴するのは、認知的にさまざまな個性を持った人々が、コンピュータをその人好みに扱えない、つまり情報をうまく扱えない、ということにつながるように思える。

言ってみれば、野球選手が「絶対にこのバットとグローブを使わなければならない」と制限されているようなもの。

 

そもそもスクリーンが表示する情報は、脳みそ的に扱いやすいものでもないと思う。実体がない。記号のみ。手ざわりも位置情報も、固有性もない。さらに言えば、スクリーンの向こう側の「仕組み」がわからないので、どう扱って良いか極めてわかりづらい。

そんな状況で、ブラウザは選べない、使い方に制限がある(アプリケーションを自由にインストールできない、とか)、外付けモニタは支給されず15インチの重たいPCのみ……というのような条件では、なかなか厳しい、と思っちゃう。

もちろん、業務内容的にそんなことが必要のない人も多いだろうし、与えられたバットでも3割打つ人もいる。気にならない人にとってはまったく気にならないことかもしれない。とは言え、一律に禁止してしまうのは……。

 

このオフィス仕事の難易度という課題、あるいはブラウザ仕事の煩雑さを、「そういうもん」「それがDX」「おじさんの、新時代への抵抗感」などと捉えるのもアリかもしれない。しかし、それなりの人たちが、問題にしているようでもある。

Notionというデジタルノートサービスは有名だ。あれはデータベース的に、またコラボーレーションを前提に、情報を集約しようとしているプロダクトだと認識している。これ自体も、なかなか複雑なシステムではあるものの。

www.notion.so

あるいは、テクノロジー・スタートアップ界隈にも、ブラウザという課題を解決しようとしている試みがあるらしい。

thebridge.jp

 

じゃあどうしようか、というのは地味にひっそり生きている自分にとっては荷が重すぎる。どなたか頭の良い人がなんとかしてくれると嬉しい。

しかし、組織の情報システム、という昔ながらの課題と捉えると、おそらく決定的なソリューションはないように思える。最終的には属人的な部分に落ちてしまう可能性が高そう。そこそこ機能している、という状態で満足すべきかもしれない。

個人がどう対応するか、という側面においては、何か対策や対応の原則みたいなものは導き出せるかもしれない。例えば情報構造を地図的に、座標系的に把握するとか、検索できるようにしておくとか、つまり、自分の脳みそにとって認知しやすい仕組みを作っておく。ただし、他人がからむと、これもなかなか難しい。結果、その場その場をなんとかしのいでいくしかない。……そんな感触は残る。

少し話を広げれば、そういう複雑な情報環境が、認知やヒトという存在そのものにどんな影響を与えているのかも気になる。そうした状況を包括的に理解するのも、なかなか難しい。が、AIの発展などと併せて、興味深いテーマであることは間違いない。……ので、やはり、どなたか頭の良い人に解決 or 解説をお願いするほかない :-)

 

Kindle、紙の本、脳 (と中年男性)


時々、過去に読んだことを忘れて、もう一回、その本を買ってしまうことがある。

昨日も、ある本のKindle版を買って読み始めたら「……なんかどこかで読んだような……」という気になってきて、おそるおそる本の小山をかきわけたら、果たして、あった。紙で買っていた。われながらアホらしい。

似たような話で、どの本を読んだかわからなくなってしまうこともある。個人的に、エンターテインメント系の本は、わりと早めに処分してしまう。そうなると、もう何を読んだか、逆にどの本が未読なのか、よくわからなくなる。

例えば、ある時に道尾秀介のミステリに驚いて、何冊か読む。しばらく、例えば3年ぐらいたって、また道尾秀介を読もうとした時には、もう既読の本は処分してある。となると、その3年前にどの本を読んだのかあいまいになる。メモでも残していればいいが、それほどマメではない。書店で棚を眺めても、あらすじを読んでみても、定かでない。既に読んだものを買ってしまうのはいやだ。……結果、どの本を新たに買ったらいいのかわからない。買わない。面倒になってしまう。

Kindleならば、そんなことはありえない。一度買った本なら、「この本は○年○月に購入」と大きく表示してくれる(紙も、Amazonで買ったのなら表示してくれるが、書店で買うことが多い)。どんなに昔に読んだ本でも、検索してすぐに引きだせる。その他にも、Kindleはスペースをとらないし、本の中身も検索できるし、何冊でも持ち運べるし……、といろいろメリットはある。

 

個人的な電子書籍Kindleの経験

が、やっぱり読書の中心は紙。フィジカルな本だったりする。

別に本そのものに偏愛があるというわけではない。ビブリオマニアというか、何かモノとして愛したりコレクションしたり、という傾向は薄い。でも、紙で読みたい。

紙にする主な理由は、Kindleで読んでも、なんだかすっきりしないフィーリングがあること。理解度や没入度が低いような感触がある。これはいろいろなところでいろいろな人が言っているようで、確かに自分もそう思う。

ただ、一口にKindleと言っても、3種類ある。

ひとつは、スマートフォンタブレットKindleアプリ。Amazon Fireもここに入れられる。
もうひとつは、専用のKindleリーダー。
さらに、MacWindowsKindleアプリ。

どれも使っているが、理解度や没入度という点では、専用リーダーがけっこういい。これは、「それ以外できない」からのように思う。ゲームもブラウジングもできない。天気予報すら見られない。つまり、気が散らない。ハードウェアとしても読むことのみが存在理由で、それを手に持つということで、読書スイッチが入るのかもしれない。そんな、極めて個人的、心理的な側面。

ただ、アンダーラインを引いたり書き込みをしたりするのはかなりかったるい。動作が遅いし、正確じゃない。ゆえに、基本的に、軽いモノを読む時に使う。

スマートフォンKindleは、個人的には画面小さすぎ。普通のレイアウトのマンガをiPhoneで読む人がいるようだが、ちょっとわからない世界。どうやら自分にとっては、ある程度の一覧性が必要なようだ。

iPadKindleはまあまあ使っているが、マンガとか、固定レイアウトの本の時が中心。専用リーダーのマルジナリアがしにくい欠点がかなり軽減されるが、一方で目が疲れやすいように感じている。

MacKindleアプリは、雑誌がいい。大きな画面に見開きでドンと写すと、文字はもちろんだけど写真も味わえる。iPadでもいいが、個人的には文字が小さくなることが多く、快適ではない(老眼がきている)。


理解度が下がるのは個人的なことなのか? 若い人はどうなのか?

理解度という側面に戻れば、やはりいろいろな人が調べている。論文みたいなものも、検索するといろいろ出てくる。メディアでも紹介してくれている。書籍もある。

 

The Reading Brain in the Digital Age: The Science of Paper versus Screens - Scientific American

紙の本が電子書籍よりも優れていることを示す数々の研究報告 - GIGAZINE (上の記事の要約・翻訳)

デジタルで読む脳 X 紙の本で読む脳 :「深い読み」ができるバイリテラシー脳を育てる:メアリアン・ウルフ

デジタルで変わる子どもたち ――学習・言語能力の現在と未来 (ちくま新書):バトラー 後藤 裕子

 

一般的にも、スクリーンで読むと、やはり理解度が落ちる傾向があるようだ。若い人も含め。

ヒトはフィジカルなモノを扱うようにできている。物質の何かを認識するようにできている。例えば「この本のこの辺に書いてあった」というのは物質世界の位置情報で、それは脳の根本的な機能を使って認識している。だから皆自然に覚えている。紙の本を読むときはそうした物質の情報も使って理解している。それがないスクリーンは、ちょっと脳への負担が大きい。

ただ、本当のデジタルネイティブ、つまり生まれた時からスクリーンで読んだ子どもが成長したときに、どんな脳みそになっているかは……、まだこれから。

また、スクリーンならでは、デジタル機器ならではの「読み」を生かすのも必要なのでは?という視点もある。どちらもうまく扱える「バイリテラシー脳」が必要だというのは、上記のメリアン・ウルフの提案。さらにサイエンティフィック・アメリカンの記事では、「新しいかたちの読み」があってもいいのでは、という結句になっているようだ(英語は苦手orz 誤読していなければ)。

 

じゃあどうする……と言ってもねえ

こうした経験や研究から何を見いだすか?

……まあ、いろいろやってみる、としか言えないかもしれない。自分なりの快適なスタイルを見いだす遊び、と捉えている。例えば、未だ試してもいないが、オーディオブック的なものなら目が悪くなっても読めるかもしれない。

そもそも、ヒトが読書するようになって3,000年とか。普通の人が読む生活をするようになって300年とかなんとか。それ以前の長い時間からすれば、一瞬に過ぎない。たまたま元からあった脳のある機能を流用して、読書に適応しているに過ぎない。

だとするならば、どんな読み方も、たまたまそうなったに過ぎない。……というのは言い過ぎかもしれないが、あまり従来のスタイルに固執する理由もないように思える。

もちろん、数百年、あるいは数千年の「知の探求」の歴史を軽んずるわけでもない。今の形にはそれなりの実証的メリットがある。知恵の結晶と言ってもいい。それはそれとして享受する。たぶんこれからも、自分の軸足はそこにある。

しかし……、問題は、自分のような、昔ながらのスタイルが染みついたタイプが、新しい世界に適応できるかどうかということ。AIの進展なども含めて、さて、今の中年ご同輩たちはどうなるか。自分などは、冒頭に書いた通り、どの本を買ったのかも忘れてしまうボヤボヤっぷり。果たして。

さらにしかし……、今は時代の最先端の若い人たちも、特にAIのことを考えると、あっという間に旧世代の価値観、認知、世界観 etc. になってしまうのかもしれない、とも思う。もしかすると、100年後に振り返ってみても、なかなかすごい時代なのかもしれない。

 


追記)
養老孟司氏が興味深いことを言っていたのを思い出した。

曰く、日本語の読みは特殊、なのだとか。

かなは音。漢字は絵。脳的に言うと、処理する部分が違うらしい。こういう言語はかなり珍しい。結果として、日本語を読む人は、脳に独特のクセを付けている。

そしてマンガの構造は、絵と吹き出し。日本語の書き言葉と同じ原理でできている。(本来は「音訓読み」の話だけど、ちょっと意訳)

……これがどういう意味を持つのかはわからないけれども、読むとは、ヒトとは、自分とは、と考える時の何かのヒントになるかもしれない、と感じている。

【公式】養老孟司 脳の働きから読み解く言語の話〜音読み・訓読みを使う日本人は器用〜 - YouTube

ぺんてる エナージェル への偏愛を(妄想入りで)述べる

ボールペンについての細かい話。誰にも通じない覚悟。特に結論はなさげ。しかし、こういうのもインターネッツにあってもいいというか、みなさんの話も聞きたい、などと思ったりするので、試みに自分の偏愛について書いてみる。

左からエナージェル ユーロ、トラディオ、キャップ式。そしてスタメンのパイロット達


偏愛の対象は、エナージェルという製品。ぺんてる

以前、筆記具はパイロット製品になりがち、という個人の特殊事情を述べた。メーカーにこだわりはないけど、時間の経過と共になぜかパイロットが手元に残る、という話↓。

 

notelets.hatenablog.com

 

しかし、そこに割り込む可能性がある製品がある。気分次第で、コレばかり使う時期もけっこうある。

それが、ぺんてるのエナージェル。
正確に言えば、エナージェルの中でも「エナージェル ユーロ」という製品。15年ぐらい使っていそう。

エナージェル ユーロ | ぺんてる株式会社

 

エナージェルのシリーズはどうやら売れているようで、いろいろなバリエーションがある。しかし、その中でも「ユーロ」のみ。他も使ってみたが、何かが違う。……らしい。

「エナージェル」シリーズの話

エナージェル全体についていえば、ゲルボールペンと呼ぶのか、サラサラと濃く書けて、すぐに乾くタイプ。油性ボールペンのような強めの筆圧が不要で、速く、疲れず書ける。

おそらく他のメーカーにもほとんど違いのない製品があるだろう。にも関わらずエナージェルが気に入ったのは、「寝かせて書ける」ということ。

0.7mmを使うと、少しペンを寝かせ気味にしてもスムーズに書ける。他のものは、引っかかったり、かすれたりしやすい。個人的に、ペンを少し寝かせて書くと疲れづらい。万年筆的なイメージ。

基本的にどのメーカーのボールペンでも、細いものは立てて書くことになるだろう。構造的に、そうなるはず。よって、エナージェルも、おそらく人気であろう0.5mm以下のことはあまり知らない。そもそも細いボールペンは、紙をひっかくような感じになりやすくて苦手。筆圧が強めなんだろうか。1.0mmというのもあるが、さすがにちょっと太い。0.7でもちょっと太い感じはあるけれど。

なぜ「ユーロ」なのか

中でも、ユーロというシリーズ。キャップ式で、リフィルの交換ができない。不便そう。安くもない。

しかし、個人的にはかなりしっくりくる。かなり感覚的な世界なのだが、あえて理由を述べれば↓

・キャップ式は個人的にマッチする。ポケットに刺して安心。
・他のエナージェルよりも、カリカリカツカツしない(手への当たりが柔らかい)。
・しかし、剛性がちょうどいい。

……という感じ。個人的には、特に後者ふたつが重要だ。

他のエナージェルは、書き味が固かったりする。少しザラっとした感じを覚えたり、指が痛くなりそうな気配を感じたりする。しかしユーロはそうならない。しっとりとした手応え、書き味。

正解はわからないが、おそらく、ペン軸が少し柔らか目の素材であることがその理由なのではないか。キャップ式のペンに時々ある、少し力を入れたらしなりそうな感触のプラスチックでできている。水性ペンの永世定番、ボールぺんてると同じ素材。

だからと言って、柔らか過ぎるわけでもない。剛性が不足しているわけでもない。あくまでしっかりカチっとしているけれども、しかし手にちょうど良い柔らかさがある。例えれば、しっかりと面取りされ使い込まれたムクの木のテーブルの安心感、のようなもの。手に馴染んで、安心感があって、イヤな部分がない物体である、ということ。

あえてリフィル交換ができない仕様も、意図があってのことだろう。他のエナージェルとはなんか違う書き味。言ってみれば、ドバドバ、だろうか。もちろんカチっとしたフィーリングにも影響していると思われる。リジッド感というか。

おそらく、これは意図的なものではないか。設計者が、柔らか目のペン軸と、リフィル交換ができないリジットな構造をあえて選択し、そうした手応え・書き味を生み出した。のではないか。

普通だったら、エコだなんだと言えばリフィル交換をできるようにしそうなもの。と素人ながら思う。しかしそれをあえてやっている。そんな気がする。(……単に、ゲルは減りが速いから大容量にしたいとか、ヨーロッパではリフィル交換式の安価なペンはあまり売れない、とかそういう現実的理由かもしれないけれども:-) ) 

さらに、細かい話

見た目的なデザインに関して言えば、特に好きということもないけれども、いやなところもない。

時々、クリップの金属パーツをなくしてくれないかとは思う。ポケットに入れたときに他のモノを傷つけそうな気もするので。ただこれはムリな要望。ムリヤリ外せないかとペンチで捻ったこともあるが、なかなかしっかりと組んである。確か、接合部だけ残るかたちで折れてしまった。仕方がないのでカメラマンが使う黒いテープを貼って隠したりもする。

クリップ部分もプラスチックでできているエナージェルもある。エナージェル トラディオという製品は、カタログには載っていないようだが、時々店で見かける(トラディオ・プラマンとは別)。逆輸入らしい。しかしこれはペン軸の素材が固いものになっている。書き味、というか手への当たりが固くなってしまう。

特にサブネームがないエナージェルにも、キャップ式がある。軸の素材もはやり同じ柔らか目。これは軸は少しだけ太い。かなりユーロに近いのだが……、自分の手は、何かが違う、と言う。リフィル交換ができるタイプで、その点がユーロと違う。これが何かの差を生み出しているのかも。わざわざユーロと、かなり近いこの製品と、両方を売り出しているのは、その差を認識している人が多いのだろうと妄想する。ペン軸の色の違いだけではない。はず。

というわけで、エナージェル ユーロ。正直に言えば、その他のエナージェルも十分に快適に使える(ただ、ノック式に採用されている口金がまるっこいタイプはなじめない)。改めて書き比べてみても、その差はかなり微妙で、錯覚や思い込み、また視覚的な要素も含まれることだと思っている。どんなものでも書けると言えば書ける。が、しかし、自分にとってはユーロが一番しっくり来ているのはまちがいない。

弘法筆を選ばず。大事なのは書く中身。……というご指摘はごもっとも。しかし、もちろん弘法ではないし、そもそもたいした中身などないし、字は一生上達しなそう。なので、せめて快適に書ければ、少しでもまともなものを生み出せるのでは。飽きっぽい自分でも何かに取り組み続けられるのでは。……などと期待して、ペンのストックを増やす日々を過ごしている。

読書する生活を楽しくする私的アイデア(221031)

読書を楽しくする私的アイデア(221031版)。

朝倉さん家の屋上より。特に写真に意味はありません。

 

・ゆっくり読む
    ・線を引いたり書き込んだり たいしたことのないことでも
    ・マーキングorマルジナリア用の筆記具を選ぶ
    ・あえてちょいちょい休憩をいれて、反芻する、噛みしめる、ぼんやりする
    ・本の中にでてきた固有名詞や知らないことを調べてみる
    ・再読する

・興味のあることについて読む / その時本当に読みたいものを読む
    ・自分にしっくりくるブックガイドを探す
    ・『ちくま文学の森』を全部買ってみる
    ・『ちくま哲学の森』『ちくま日本文学全集』でもOK
    ・「このミス」上位作品を買ってみる
    ・「海外SFハンドブック」(ハヤカワ文庫)を買ってみる
    ・ある著者について、発行年順に読んでみる
    ・調べて、芋づる的に探す
    ・新聞の書評欄に載ったのから選んでみる(基本土曜)
    ・子供向けの本を侮らない
    ・読みたい本リストを作る。できればなぜ読みたいかもメモ
    ・入門書は何冊か買う
    ・権威は権威として知りつつ、ありがたがり過ぎない

・しっくりくる読書スタイル(のようなもの)を探す
    ・3行でもいいから読書記録、メモを残す
    ・読んだ日付も残す
    ・オビやカバーを取って読む
    ・革のカバーをかけて読む
    ・あえて速く読む
    ・途中途中をつまみぐいして読む
    ・必要なところだけ読む
    ・家で読む場所、マイプレイス的なものを確立する
    ・落ち着いて「読める」喫茶店を見つける(背後を取られないことが重要だ)
    ・外で読む時のためのBGMを探す、プレイリストを作る
    ・ホワイトノイズとか環境音とかもいい
    ・外で読む時のためのイヤホンを探す
    ・カバンに筆記具を入れておく
    ・胸ポケには常にマルジナリア用の筆記具を
    ・読書ノート、読書カードもいいかもしれない
    ・RHODIAは強い味方
    ・Kindleはいつも満充電
    ・Kindleは広告なしモデルを買う
    ・広い公園とかに折り畳みイスを持ち込んで読むのもいい
    ・会社帰りに喫茶店で30分読むのもいい
    ・途中で止めるのもいい
    ・速く読む
    ・寝ころがって読む
    ・風呂でも結構読める
    ・時には端座書見

・本の世界について知る
    ・著者について調べる
    ・著者のTwitterを見てみる、フォローしてみる(ただしなんだか醒めることもある)
    ・受賞作を読んだら、その賞について調べてみる
    ・どの出版社の本かを気にする
    ・出版社のPR誌を眺めてみる
    ・東京堂のレジ前平台を気にする
    ・出版社のTwitterを軒並みフォローしてみる

・書店を好きになる
    ・自分のベース書店を持っておく
    ・週イチで行く
    ・書店のそばの、いいぐあいの喫茶店を知っておく
    ・時には遠出して知らない書店に行く
    ・時には専門書店に行く
    ・書店で買ったら、とりあえず喫茶店に入ってその本をいじる
    ・都会の大型書店なら、朝か夜行く(すいていて静かなので)
    ・図書館も使いよう
    ・好きな書店で、あえて客注を入れてみる
    ・神保町の専門古書店に行ってみる 自分の興味がある分野の専門店があったらベスト

・メガネには気を使う
・なんかいい、を大事にする
・マンガも文学だ
・試しに1か月、あるテーマを集中して読んでみる
・聖書とシェークスピアギリシア神話あたりを知っておく
・本について話せる友人を持つ
・そんなところでそんな本を読んでいる自分に酔うのもいい
・ケチって文庫になるまで待たない
・本棚は空きスペースを確保しておく(ムリだけど、理想を言ったらダメということはない)
・処分する本をとりあえず10冊探してみる
・本棚の1コマを空ける
・「その分野の棚」を眺めて悦に入るのもいい
・映像化されたものを見てみる。ただし比べない
・ひとりになる
・どこでも使える読書灯は意外に便利
・図書館は使いよう→『図書館に訊け!』
・外国語も読めるようになると幅が広がる(日本語の読みも変わる)
・古文、漢文の知識があると幅が広がる
・数式はおもしろい
・信頼できる辞書を手軽に参照できるようにしておく
・専門辞書を買っておく
・学習参考書はかなり有益
・読みたくないときは読まない
・「ヤスい」本を馬鹿にしない
・解説してくれる本だけでなく、原典にもあたる
・その分野を「卒業」すべき時は自然にわかる
・実利 / コスパは考えないし考えてもしょうがない
・例えば本を持って京急の終点まで乗って、昼メシ食べて、帰ってくるミニ読書旅もいい
・乱読、濫読