Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

スマホってなんなんですかね。みなさん、お好きですか?

年々、スマートフォンが気持ちよくなっていく。

いや別に、スマホを使うとバカになるとか、そういう高尚なことを言いたいわけではない。ただ、楽しくないというか、しっくり来ていないというか。iPhone3G以来、それなりにスマートフォンを使ってきた。新モデルが出るのをわくわくしながら待ったこともある。Androidも何台か。仕事にも関係があるから、それなりにいじってきたように思う。しかし、ここ数年は……。

理由はいくつか思い当たる。


例えば、街を歩いていて、スマホを使っている人の、美しくない光景を度々目にすることとか。いわゆるスマホ歩きをして道をふさいでいるとか、電車の中でスマホに夢中になって、席を譲るべき人にまったく気付かないとか。スマホでバカになるかは知らないが、公共の場で行動の質が下がるのは間違いないだろう。危険とか迷惑というレベルに至らないとしても、なんだかどんくさい、と思ってしまう。

誰かを非難をしたいわけではなく、「もしかすると自分もそうなっている時があるかもしれない」という美しくない感じ。ひと様にまったく気を使えてない感じ、とでも言うべきか、あまりそういうのは自分として好ましくない。周囲の人には一定の敬意を払いたい。もちろん程度の問題だし、スマートフォンに夢中になっている人には、きっと何かその人なりの理由があるのだとも思うけれども。

このへんは、持って生まれた性格によるのかもしれない。他人のことをどこまで気にする性質か。気にしないで自由にできる人は、その瞬間、その時はいいかもしれないが、長い目で見るといろいろ損をしているかもしれない。気にしすぎる人は、いろいろ辛いけれども、むしろ暖かい人間関係を持てるのかもしれない。良い悪いを言える問題ではないように思う。いずれにせよ、他人に敬意を持てているかどうかが重要な気がするが。


また、スマートフォンの「通知マシン」な面もある。あれこれ通知してくる。集中を妨げる。

もちろん通知をオフにすればいい話だけれども、それだけでは済まない。「通知」がある前提の世の中は、そのスピードで仕事が動くことになる。Slackを使って仕事をしているなら、その通知が皆の手元に届いている前提になる。皆がスマートフォンを持っていて、いつでもどこでもメッセージやらメールやらを見られる、という前提で動く。ということは、そういうスピードで対応を期待されてしまう。

通知に限らず、スマホ時代のスピード感、ということか。それがいいものであると認識する人も多いだろうが、メリットもデメリットもあり、それ自体がいいことでも悪いことでもないのでは、と個人的には思う。単純に、拙速という言葉を使いたくなる状況も多い。速くても遅くても、悪いコミュニケーションは、単に悪い。ただ、もちろん、速すぎれば働く人のプレッシャーは上がっていく。自分もそのプレッシャーを感じて、イヤな感じを覚えることも多い。大げさに言えば、現代のパノプティコン装置。


近頃はたいていPCの前にいる、という状況も関係しているかもしれない。近頃はオンラインでできることが増え、またコロナだなんだと言って、PCの前にいる時間が増えた。スマホがいくら便利と言ったって、たいていのことは原理的にMacの方が精度が高い。と思っている。スマホで仕事が捗る、という人もいるようだが、自分の仕事の場合、スマホのメリットは本質的なものではない。たいていの場合、単に便利、というレベルにとどまる。結局、スマートフォンを使わなくてはならない状況の時に、そのデメリットだけが目立つ。

(……という感想は、自分の仕事が、もともとコンピュータがある前提の仕事だからかもしれない。これまでコンピュータが使えなかった仕事環境、例えば配送の仕事とか、そういう場所では、スマートフォンがとても有効に使えることはあるだろうと思う。それで配送の仕事をする人がいい感じになったのか、あるいは忙しくなっただけなのかは知らないけれども。あるいは、人にふんわりした指示を出せばいいだけの人も、スマホが「ビジネスを加速させる」のかもしれない。知らんけど。)


老眼、という物理的条件もある。これが避けられない現実:-0 ちょっとした見づらさでも、小さな画面を見るのが無意識レベルから楽しくなくなるように思う。人口動態的に、ここからが老眼文化の本番になるだろう。

近頃のiPhoneが美しくないと感じてしまうのもある。プロダクトデザインにこだわりがあるわけでもないのだが、それでも……、なんだか。あの盛大に出っ張ったカメラ部分が気になるのか。単に、街で多く見かけるものは、なかなか美しいと感じづらい、というだけの話かもしれない。当たり前になってしまって。

大前提として、新しい機種を買ってもできることは別に変わらない、というのもある。つまりスマートフォンというものがもはや成熟した、みたいなこと。もちろん何か新しい機能が追加されているのはわかるけれども、本質的にはもう変わらない。わくわくするものではなくなった。楽しさというよりも、生活用品。服、例えば新しいジャケットを買うのは楽しみだけど、下着を買うのはたんなる出費。……みたいなこちらの捉え方の問題。

……などとぐだぐだ書いていて、われながらイヤになってきた。じゃあ使わなきゃいいじゃん、みたいな。そりゃそうだ。

でも、何ごとか言いたくなるのは、その昔にスマートフォンにわくわくした経験があるからかもしれない。机という呪縛から逃れて、どこででもコンピューティングできる未来。かつてのDynabook思想(アラン・ケイの方。東芝のパソコンではないやつ)的なことかもしれない。未来を開くコンピューティング。その、よくわからないけれどもわくわくする未来。……あるいは、いわゆる「スティーブ・ジョブズの現実歪曲フィールド」の中にいたのかもしれないけれども。

いずれにせよ、スマホを使いこなす側から、使われる側になってきた、ということだろう。そろそろ、スマートフォンに何かを期待する時期は過ぎたのかもしれない。いや、もうとっくに、なのかもしれない。