Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

RSSリーダーで読むことの個人的メリット

未だにRSSリーダーというやつを使っている。もはやこの言葉を聞く機会はめったにないので、絶滅危惧種というべきなのかもしれない :-0

念の為に書いておけば、RSSリーダーとはサイトの更新情報をまとめてくれるウェブサービスで、好きなサイトを登録しておいて、更新があったらそれをまとめて表示してくれるというもの。

    例えば⇒ https://feedly.com

今は、同じニーズをTwitterなどのSNSが担っているのだと思う。おそらくみなさん、スマートフォンでそういうものを見ているのでは、と想像する。スキマ時間やベッドの中でそういうものを開いて、親指でスクロールして、興味が湧いたものをチラっと見に行く。ざっと見たらまたタイムラインに戻る。横断歩道の信号が変わるまで。眠くなるまで。次の駅に着くまで。♥を付けておいてあとでじっくり読む。上級者ならばPocketなどのあとで読むためのサービスを使う。……とかなんとか、自分もそんなことをしたりもする。

▼モヤっとするタイムラインと、コンプリート感と

ただ、このSNSの、タイムラインとかニュースフィードとかって言われるものが、あまり好きではない。何かモヤっとした感覚がつきまとう。別に「低俗情報やノイズばかりだ」などと非難するつもりはなくて、単に、満足感がない、という言い方が近いか。

例えば新聞というパッケージと比較してみると、その満足感というものを説明しやすいだろうか。新聞は1日1回届く(夕刊は置いておいて)。前日までの、一応ある基準に則った、価値があると判断されたニュースが一箇所にまとまっている。コレさえ見ておけば大丈夫、網羅している。……というような気分になれる。内容の善し悪しはさておき。

この気分をまとめてみれば、「コンプリート感」とか「安心感」、「ちゃんと見た感」などと言えそう。つまり、一定の満足感がある。

RSSリーダーにも、一定の満足感がある。自分が「見ておくべき」と判断したものが、すべて視界に入る。そして登録したサイトは限られているので、終わりがくる。逆に言えば、重要なサイトの更新情報はコンプリートしている。流れについていっている。情報を押さえている。

対して、タイムラインは、終わりがない。まとまってもいない。網羅してもいない。延々とスクロールできる。終わりがない。自分がフォローしたものが終わったら、別に友達でもフォローしているわけでもない、おもしろツイートとか釣りっぽい動画、話題のニュース、マーケティングのためのコンテンツなんかが流れてくる(そしてその合間に広告)。それがいいとか悪いとかではないが、どこで満足すればいいのかわからないのは確か。

▼読む時の、心地よさという要素

……伝わるだろうか。つまり、タイムラインに終わりがないということは、すべてチェックしたというフィーリングに乏しい。しかも自分が見ようと思っていなかったものも紛れている。まだ、もっと、見られる。対してRSSリーダーは、見るべきものを見切った満足感がある。

頭のいい人たちの言葉を借りれば、ツァイガルニク効果とでもいうのか。ヒトは完了していないことが気になる、というアレ。さらに言えば、やはり、おもしろツイートとか気を引くツイートなどに引っ張られ、注意が散漫になる。その他のアレコレも含めて、SNSのタイムラインには人の注意をひきつけるための機能がある。そう設計されている。

この満足感というニーズ、気分は、ちょっと強迫症的なところがあるかもしれない。神経症的というか、こだわり過ぎ、気にし過ぎ、というか。ただ、残念ながら、自分はそこまでのきっちりさを持っておらず、RSSリーダーの未読記事が数千とかになることも多いし、今は新聞もとっていない。つまりテキトー。

「そんなテキトーなヤツはTwitterでもなんでもいいじゃん」、という話はごもっとも。惰性的にRSSリーダーを使っているという側面も否めない。

とは言え、SNSのダークサイド、ある種の神経ハックをして滞在時間を延ばすという目的には、本能的に反発心を覚える。インターネッツを見るなら、生産的でありたい。余計なものに振り回されたくない。偶然の出会いとかそういうこともあるとは思うが、SNSにキリがないのはやっぱり間違いない。余計なツァイガルニク効果は捨て去って、集中すべきものに集中したい、大事なのはアウトプット。

……そんな気分もあったりして、結果として、RSSリーダーが心地いいと感じることが多い。そして年々、なにかにつけ、理性的な考えの結果としての効率よりも、こうした感覚的な心地よさを重視しがちになっている(当社比)。