Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

凡人の、とある学びのスタイル⇒「なし崩し志向」

その昔、哲学という学問と格闘してみたことがある。

哲学と言えば、わからんことで有名。難解。だから入門書と言われるものを読んでみるのだけど、入門書がもうわからない。「?」の連続。そもそもなぜそんなことにこだわっているのかすらわからない。「物自体」という耳慣れないキーワードが出てきたとして、その定義を懇切丁寧に説明してくれているはずなのにもかかわらず、理解できない。「はあ? 何言ってんの?」と思っちゃう(すみません)。

それでもしばらく、しつこく読んだり考えたりしていた。10冊か20冊かそれ以上か、手間も暇も、自分なりに結構使った。しかし、わからない。わかったと思える瞬間がない。

それで少し離れたり、仕事に忙しくしていたり、別のことに取り組んだりしていて、一息ついたタイミングでフと、難解で有名な『純粋理性批判』が視界に入る。そして手に取る。開いてみる。するとこれがあら不思議、「あ、こういうことだったの?」と少しわかったような気がする。少なくとも手がかりがつかめたような気がする。

けっして、バン!と新しい世界の扉が開いたように理解したわけではない。そうではなく、ズルズルっと、いつの間にか何かを理解している。振り返ってみて、「……ああ、そういうことを言おうとしていたのね……」となる。

普通、モノゴトを理解する時、前者のようなイメージをしているように思う。何か決定的な「これだ!」というポイントがあって、それを理解するといろいろ新しい扉が開かれる。これまでわからなかったことのつじつまが合い、構造やメカニズムや核心をぐっとつかめる。美しい「エウレカ!」の瞬間。あるいはその哲学の用語で言えば、「コペルニクス的転回」(違うか)。

もちろんそれもあるのだが、自分が「哲学がわかる」と感じたような、ズルズルとした理解。これもけっこうあるように思う。

例えば外国語の学習も、そういう側面がありそう。

文法を学んで、「あ、そういうことね」と思って実際の文章を読んでみる。が、たいていわからない。単語の意味はわかるのに、文章としてはわからない。しかしズルズルと(あるいはめげずに積み上げていると)、その文法の知識を使えるようなっている。「わかった!」というより「ああ、読めるかも」みたいな。少なくとも個人的にはそういう感じを持っている。数学なんかも同じようなところがある。言い換えれば、知識と技術の違い、なのかもしれない。

少し広げて言ってみれば、「効果は遅れてやってくる」とでもなるか。

生活や仕事の技術も、学んだ直後にはアタマだけで理解している状態で、しかし少したってから、実際に使えるようになる。効果は遅れてやってくる。筋トレだけじゃなくて、アタマの方もそういうところがありそうだ。そしてさらに「きちんと」理解したいならば、また深めて行きたいのなら、もうそれに向けて動ける状態になっている。それだけの土台ができている(……と思いたい)。

だから、あまり焦らない。わからない、自分には無理、と感じてもあまり思い詰めない。自分に必要なことなら、いつかわかる時が来る。……そのくらいの心構えでいいように感じている。

何か学ぼうと思った時の「計画」も同じだ。計画してそれを淡々と実行していける人に憧れる。尊敬する。しかし、自分はそういうデキの良いタイプではない。むしろなし崩し的。ズルズル。一応、計画らしきものを立てたりはするのだが、まったくそのとおりにはいかない。その場その場で方針転換、手当、対処、つぎはぎしていくスタイル。

これを「ズルズル志向」ではあまりに情けないので、「なし崩し志向」と心の中でひそかに名付けている。……いっしょか。いずれにせよ、凡夫の読書術、学習法。