Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

凡人と読書──あるいは言い訳と開き直り

凡人、というのは自分のことだけれども、凡人は凡人なりに読書のスタイルがあったりする。もちろん完全に固定されているわけではなく、変わっていく。試みに、今の感じを書き残してみる。

全体として、肝心だと思っているのは「好きにする」ということ。

好きなものを好きに読む。これに尽きる。

例えば、世の読書術を読むと、ああせいこうせいと書いてある。もちろんそれらは参考になるし、確かに役に立つことも多いけど、自分にフィットしないものは採り入れない。というか結局のところは自分にフィットするものしか採り入れることができない。

例えば本は書き込みをしながら読めという。赤ペンでマーキングしながら読めという。マルジナリアだという。確かに役に立つし、実際にやっている。

しかし、それは、書き込みしたいと思った時だけ。常にそうしないとけないわけではない。そうしたいと思わせてくれる本に出会ったときに、そうする。凡人はいつも本に100パーセントのエネルギーを注げるわけではない。ぜんぜん集中できないときはしょっちゅうある。というかそれが初期設定状態 :-0

読書ノートとか読書記録とか、そういうのも同じ。残したいと思ったものだけ、ノートに残す。そのノートも、完全に整理しようとは思わない。そういう性格ではない。時にはきっちりしたくなったりもするけど、しかしいつもきっちりしていることはできないのが凡人。単にめんどくさがりか。

本選びも同じで、フィーリング。例えば古典を読めとみなさんおっしゃるけど、その御意図もわかるけど、正直しんどい。その分野の必読書みたいなものもあったりすると思うけど、読みたくならなければ読まない。ミステリを読む時、ポーから始まってドイル、クリスティ……とかって系統だって読むこともできると思うけど、別に。読みたいモノを読む。そういうある種の学術的な読み方をしたくなったら、する。

時には「本への憧れ」みたいなものを持ったりもする。例えば、「シャーロキアンっておもしろそう」「やっぱグレッグ・イーガン」「フランス現代思想ってなんかかっこいい、喫茶店でそんな本を読んでみたい」……みたいな。今はそういうこともなくなったけど、もしそう思うならやればいい。凡人はひとさまの目から自由になれないので、そういうことは恥ずかしいと思ったりもするのだけれど、でもまあやればいい。それも凡夫ならではの楽しみのひとつかもしれない。

読書の量については、もちろん多くの書物を読むことなどできない。世事がある。腰が痛い。目の疲れ、かすみ。心配事。読書を妨げる要素は多い。もし仮に読めたところで、消化できない。それほどの知的体力があるわけでもない。エネルギーや探究心もない。

しかたがないので、「目を通す」ことにはしている。つまりきちんと読まず、目を通す。そして良さそうだったら、ちゃんと読んでみる。そういうことをして、良い本と出会う確率を高めている。小説とか物語とかはそういうこともできないので、読むが、途中でやめる。

時には、お勉強をしようと思うこともある。あるいは勉強しなくてはならない。これも、少しでも好きになれるところから始める。例えば哲学の勉強をしようと思い立ったとする。その時、まずは多くの入門書云々に目を通す。そして、なんだか気になるモノ、良さそうな1冊から初めてみる。てきとうに。「この本がベスト」「この本が評判いい」という情報も視界に入るけど、それはそれとして気にしない。自分にフィットしそうなものを探す。


まとめれば、冒頭の、「好きなものを好きに読む」。

言い換えると、自分なりに読む、ということだろうか。

自分なりに読むと言うと、誤読したりかんちがいしたり独善に陥ったりなんだり、間違う可能性もある。でもそれはしかたがない。学者さんならそうはいかないだろうが。

それに、誤読はクリエイティブだ(と言ってみる)。単なる誤読はそうでもないかもしれないが、誤読なりにつじつまが合っていたり、説得力があったりすれば……それは解釈かもしれない。それに、そもそもちゃんとは読めないと言っている学者さんもいるので信用することにする(ピエール・バイヤール)。あるいは、誤読も凡夫の思想と言えるかもしれないとも思う。自分なりに役に立つこととも言える。


少し突っ込んで考えてみると、あえて「好きに読め」なんていうことは、「こう読め」というプレッシャーを感じているのかもしれない、とも思う。それは今のなんでもかんでもきちんとしていることを目指す世の中の圧かもしれない。あるいは単に、きちんと読めないことに負い目を感じているのかもしれない。

凡人は凡人なりに、世の中の空気を読む。そして息苦しいと感じる。成果。効率。ポリコレ。道徳。倫理。生産性。競争。成功。そういうのがなんだかイヤ。別に正義論とかマルクスとかブルシット・ジョブとかマイケル・サンデルとか、そういうことを持ち出さずとも、「かんべんしてくれよ」と感じる。

世に出回る本たちも、そういう今の価値観を反映する内容になっていく。効率のいい読書、身につく読書、読むだけで生産性10倍、3日で教養が身につく本、成功するための読書術……。

そういうのを見ても「はあそうですか」となる。あるいは時にはカンフル剤的な効果を発揮することもあるが、すぐに「俺にはムリだった」となる。しかしそれでも圧を受ける。こうでなきゃいけないのでは。自分はちゃんと読めてないのでは。これくらい読んでないと恥ずかしいのでは。なんとなくそんな気がしてくる。

ましてやもっとマジメな人は……、「そうじゃなきゃいけない」と真剣に思ったりしそう。そして挫折する。心が折れる。どうせ俺なんて、と幻滅する。絶望する。

できれば、楽しく読みたい。もちろん自分を高めるために読むというのは、それはそれでひとつの道。それが楽しいうちはいいだろうと思う。しかし、それが全てではない。それに、だいたい同じようなことをループするはめになるし、もし、本を使って自分を偽って、そのうえで「高いところ」にいるのなら、後が辛くなるだけ。

あるいは、苦しいから読む、というのもあるが、あまり苦しいことに付き合っても、つまり自分の中をのぞき込んでも、凡人は捗らない。下手の考え休むに似たり。……休むぐらいならいいが、ドツボにハマることもある。もちろんとことん悩めるなら、思想の域にまで発展するかもしれない。が、それはもちろん凡人の仕事ではない。

だから、自分には「好きに読めよ」と言う。まじめな人、あるいは自分の中のまじめな一面に向けて付け加えるならば、「ほどほどにね」と言いたい。

無条件に、本を読むことはいいことだと言う人がいる。そうなのか?と思う。読まなくてもまっとうに暮らしていけるならその方がいいのではないか。これからの世界を生き延びるために、というような切り口はよく見るが、それは強迫じゃないのか。親切心で書いているのだとは思うが、果たして有効なのか。

もちろん、そういう価値観にNOという本を作ってくれる人もいる。「そういう圧力は違うんじゃない」と言ってくれる本もある。あるいは単純に、そういう価値観から距離を取らせてくれるものもある。物語とか韻文とか、あるいは哲学の類いもそうかもしれない。ありがたい。そういう本もあるから、未だに本を読んでいるのだと思う。


……などと、試しに書いてみた。別に普段からそういうことを考え続けているわけでもない。ただ、結果としてそうなっているというだけ。最近まじめ過ぎて疲れてしまった人を間近に見たので、そういうものに引きずられた部分もある。