読書をする姿勢は、どんなものがいいのだろうか。
時々、マキャベリのエピソードを思い出す。マキャベリは仕事を失い、しかし自らの才覚を信じ、昔の偉人たちが書いた本と向き合って、そして『君主論』などを書き上げたらしい。
その時、わざわざ正装(あの時代の服だから、いろいろめんどうなものだったのではないかと想像する)し、読書専用の机に向かっていた。つまり、読書にそれだけ真摯に取り組んでいた、ということだろう。
あるいは松岡正剛氏は、決まった赤ペン(たしかVコーン)なしには読めず、また本によって飲みものやお菓子を変えたりすると何かで読んだ。こだわっている。
おそらく、一流の本読みたちは、そういう「スタイル」が自然にできているのだろう。翻って、我が身のことを考えると、まったくだらしない。集中できる時間はほんのわずか。どうすればいいのか。
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▼机に向かって読書
読む姿勢と言えばこれなんだろう。机に向かって、イスに腰掛けて。
確かに、アタマが一番働くような気がする。姿勢というのは、例えば精神の覚醒度みたいなものに影響があると聞いたことがある。確かにそういうことはあるだろう。姿勢は呼吸にも影響がある。脳と体のその他の部分はもちろんつながっている。
しかし、個人的にはどうにも……。たぶん、読んでいる時間の2割程度しか、机に向かっていない。なぜかと言えば、「なんだか落ち着かない」。あいまいな、気分の問題。
もちろん大判の本とか、あるいは詳細なメモが必須だとか、そういう現実的な理由で机で読まざるを得ないこともある。理解できる。しかし、みなさん、本当にこの姿勢で読んでいるのだろうか……?
イスが悪いのか。机の向きとか明るさが悪いのか。そういう物理的なこともあるかもしれない。
あるいは、「背後を取られている感じ」が気にくわないのか。……これは個人的なことのようだけど、例えばオフィスで読むことをイメージすると伝わるだろうか。よくある、机が並んだオフィスで読書しようとした時、とうぜん自分の後ろにも誰かがいる可能性がある。たいていイスの「後ろ」は通路になっていて、誰かが通る。そういう状況は読みづらい、のは誰でもあることなのでは、と思う。そういう気分が、たいていの机のイスにつきまとう。
完全なプラベートスペースの個室があれば、加えて本当に安心できるレイアウトにできれば、机に向かって読めるのだろうか。諸事情で今はそういうことができないので、妄想するしかない。今は仕事用の電話ボックスみたいなものが駅なんかに置いてある。あれは読めるのか。
あるいは、「その他のこともできる」という側面もあるかもしれない。家でもオフィスでも、自分の机は仕事をするところだったり、コンピューターをいじる場所だったり、あるいは請求書の手配とか、事務的なことをする場所。それらの「雑務」を思い出してしまう。そういうおちつかなさもあるのかもしれない。
▼ソファなどに座って読書
ソファはなかなか快適。……と、読み始めには思うのだけれども、少しすると寝そべってしまう。自然に寝転がりたくなる。そして、眠ってしまいがち。読書でなくとも、例えば映画を見ていても最終的には寝転がっている。
ひとり掛けのソファはどうなんだろうか。持っていないのでわからないが、そんなに座っていられるのだろうか。
▼通勤やちょっとした電車移動中に読書
例えば20分の電車移動。座れることもあれば立ったままの時もある。
周囲のコンディションによって、「少しは読めることもある」という感じを持っている。
もちろん混んでいたらダメ。すいていて、ひとさまにあまり気を使わなくていいなら、軽いモノは読める。でも、例えば地下鉄で座っていて、駅について、ドアが開いたら、心のどこかで「座っていただいたほうがよい方が乗ってきたりしないか」みたいなことがよぎる。これに限らず、どこかでひとさまのことを気にしている。本に没入できる度合いは低い。
▼新幹線や飛行機で読書
じゃあ、だいたい席が決まっていて、時間も長くて、集中できそうな感じもする新幹線や飛行機はどうか。
確かに、そんな時はちょっとしたごほうび感を覚える。座っているだけで他に何もできず、他人にもそれほど気を使わなくていいはず。2時間なり10時間なりの、読書に使える時間。そのために事前に選んだ本を意気揚々と持ち込む。
……が、しかし、たいして読めない。
なぜなのかはよくわからない。音だろうか。エンジン音や人の声。ノイズキャンセリングのヘッドホンも使うが、読めないのは同じ。揺れもあるかもしれない。自分の弱った目には悪いコンディションなのかもしれない。
あるいは、その状況が「普段と違う」から、ということも考えたりする。つまり筆者にとって、新幹線はまだしも飛行機はそれほど頻繁に乗るモノではない。よって借りてきた猫と同じで、周囲に注意を払っている。実際にCAさんが来たりする。読んで、その世界に没頭するモードでない。みたいな。
▼立って読書
座っているのは体に悪いから立って読む、という話を聞いたことがある。率直に言って意味がわからない。ヘミングウェイは立って書いたそうだが、まだそちらの方がわかる。特に短編なら。
▼寝転がって読書
実際、五割ぐらいは寝転がって読んでいる。読書の姿勢、と言って思い出すのはこれ。
例えばSFとかミステリ小説なんかは、ほとんど横になって読んでいるような気がする。エンターテインメント系、という感じか。
つまりはあまり難しくないもの。認知負荷が高くないもの。そういうものは、寝転がって読むのが快適だ。メモを取る必要は通常はないし、楽しむことが優先。体に負担はかからない。目にいいか悪いかはよくしらないけど。
実際には、難しい本(当社比)も寝転がって読む。その場合はマーキングorマルジナリア用のシャーペンなんかを持っている。体が疲れない、というのはメリットだ。
さらに言えば、「体を忘れることができる」のかもしれない。自分という物理的存在をいったん忘れ、その本の世界だけに注意を払える。そうなると、本への集中はかなり高まる。
……が、やっぱり、眠ってしまうリスクは大きい。
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▼「没入度」
そういうわけで、読書の時間の半分を、おそらくソファに寝転がって読んでいる。その他の読書時間は、机かソファに座って、寝床で寝転がって、というところだろうか。……まったくだらしない。
とは言え、昭和の大評論家の加藤周一も、寝て読むと書いていた。これを心の支えにする。↓
⇒読書術 (岩波現代文庫) 加藤 周一
https://www.amazon.co.jp/dp/400603024X/
こうして書いてみると、本当に自分は集中力がないのだな、と思う。周囲に人がいれば、多少なりとも気が向かってしまう。われ関せず、と自分の世界に入れるタイプではない。
その「自分の世界」というのが重要だとも思う。寝転がって読むというのは、つまり他人を気にしなくていい状況だからできることだし、自分の体を意識しなくていい。つまり本の世界に没入しやすい。自分の世界に入っていてなんの問題もない。
だとすると、つまり、読書の質を上げるためには、いかに自分の世界に入り込みやすい状況を作るかがキモ、ということになる。没入度、とでも言うべきか。
アイザック・アシモフは、例えば狭い部屋で、小さな兄弟が騒いでいても読めたらしい。代わりに、町を歩いていて車にひかれそうになることが多かったとも書いてあった。つまり、極めて没入しやすいタイプなのだろう。その能力を生かして、あの傑作や大量の科学エッセイを残した、ということなのだろう。
自分は、わりと気が散りやすい。没入しにくい。自然に周囲に気を配ってしまう。「しまう」と書いたが、別にそれは悪いことというより、ただそういう性質である、というそれだけ。おそらくいいも悪いもない。ただ、読書という行動には向いていない面がある、ということだろう。
▼とはいえ読みたい。ではどうするか?
おそらく、どんな時に快適に読めたか、いろいろ試行錯誤していくしかない。と思っている。いろいろな状況で読んでみて、振り返ってみる。読める状況を作る。今は、寝転がって。クッションやらまくらやらのあんばいだとか、本への書き込みはどうすれば快適か。
しかしむしろそれよりも重要なのは、あえて集中しようなどと考えず、「自然に没入してしまう本」を探すことかもしれない、とも思う。
寝食を忘れて、という言葉があるけど、まさにそれ。そういうテーマなり著者なりを見つけること。もしそういうものが見つかったら、姿勢などどうでもいいことになるのではないか。眠ってしまうこともない。
いかに自分が本当に引きつけられるものを見つけるか。それが一番重要な「読書の姿勢」なのかもしれないとも思う。