何かを学ぼうと思った時、「読書記録」という技術がある。読書ノート、というべきかもしれない。
書店に行けば読書の技術についての棚があり、Googleのお世話になってみれば、懇切丁寧にその方法を教えてくれるサイトがある。先生がたくさんいる。魅力的な解が並んでいる。それだけみなさん貪欲に学ぼうとしているのだろう。すごい。
個人的にも、読書の記録を残したいと思うし、残している。
しかし、それらが先生たちの言うとおりにできているかと言うと……、まったくそんなことはない。マメで丁寧できっちりして細かい作業をいとわない人は、充実した読書記録を残せるのだろう。しかし筆者はあらゆる面でずさんで根気が続かない。ひとさまにお見せできるようなものはまったく残せていない。
とは言え、あるていどは有効に使えている。なんとかなっている(と思いたい)。……ということで、その方法を残してみる。自分に似たような人もいるかもしれないので。
ついでに前段として、なぜうまくいかないか、その核心なのではないかと思っている要素にも触れておく。こちらもご参考まで。
▼読書記録の理想像
学び、という実際的な課題について言えば、読書記録の理想的なかたちは以下のようなものになるだろう。
- 読むべき本のリスト、書誌情報が完備されている
- 読んだ本のリスト、書誌情報が完備されている
- 読んだ本についてのメモ、ノートが再利用可能なかたちで残されている
- 上記をいつでも簡単に引きだせる仕組みがある
特に難しいことはなさそうにも思える。ただやればいいだけ。特殊な技能は必要ない。
▼読書記録にはどういう手法があるのか
一般的には、以下のような方法が考えられるだろうか。
こちらも、何か特別な手法があるわけではない。みんな使っている道具だし、単に字が書ければなんとかなるはず。
▼読書記録の課題
読書記録を残そうと思った時の課題を想像してみると、以下のようになる。
- 「どうやって書いたらいいのかわからない」
- 「続かない」
- 「めんどう」
- 「整理できない」
- 「なんのためにやってるのかわからなくなる」
続かない、というのが最も多い感想かもしれない。
▼課題の核心(の仮説)
読書記録の方法は別に難しくない。
しかしそのハウツーを求める人は多い。つまりできない人も多い。
何が問題なのか。
きっと、「完璧主義」なのではないかと妄想する。
読書記録を残すなら、立派なものにしなくてはいけない。読んだ全ての本について何か残さなければならない。良い本を読まなくてはならない。完璧な読書記録を作りたい。必ず感想なりなんなりを残さないといけない。……そういう思い込みが問題の核心なのではないか。という仮説。
そもそも、読書記録をつけようと思う人は、何かを貪欲に取り入れようとしているだけではなく、知識を整理し、整え、残そうとしているまじめな人だ。混沌とした書物の世界に秩序を採り入れようとする人だ。
完璧主義とまではいかなくとも、秩序を志向する人なのは間違いない。
しかしその秩序を保とうとするのは、なかなかに大変。はじめはいいが、どこかでキズが生まれる。維持するコストがかかる。ゆえに、「続かない」。
あるいは、この秩序を求める性向が強くて、自然にきっちりかっちり整えることができる人もいる。そういう人は、きっと研究者だったり何かのマニアだったりして、現代では特に尊敬を集める。
しかし多くの人は、そこまで至らない。無意識に秩序を求めつつも、勝手に理想像を作り(あるいはメディアなどに「こうすべき」を与えられて)、そして現実に幻滅する。初めはその人なりの完璧を保てるが、いずれ疲れてしまう。常に秩序だった人格を維持できるわけではない。結果、「続かない」。
▼読書記録における最も重要なコンセプト
ということはつまり、読書記録をつけるうえで最も大事なことは、
てきとうにやる。
……ということになる。あるいはがんばりすぎないとかきっちりやり過ぎないとか、そういうことでもいい。
もともときっちりできる人がうまくこなしている景色を妄想して、それと比較して、萎える。あるいは検索上位を目指すメディアが「こうするといいよ」と見せてくれるユートピアを探している。これはもったいないというか、だまされているとさえ言えるかもしれない。少なくとも、現実に即していない。
「いやいや、それはオマエが完璧主義なだけでは?」という指摘もありうると思う。確かにそうかもしれないが、むしろ自己認識としてはずさんな方だと思っている。
ただ、人はそれほどわかりやすいものではないとも思う。ある一面で完璧主義だからといって、全ての面でそうかと言えばそんなことはない。もし本当にあらゆる面で完璧主義なのだとしたら、かなり生きづらいことになってしまう。世の中はテキトーだらけだから。
あるいはもし平均点をつけるならずさんな方だとしても、ある一面ではとてもこだわる、ということもある。
ある面では「こうすべき」とほとんど無意識レベルで考え、別のある面では本当にずさん。これが時の流れとタイミングで変わったり、入れ替わったりしていく。そうしたうつろいやすい性質があって、あるときは読書記録をきちんとつけようと思い立ち、しばらくするとおざなりになって、その結果、続かない。
ゆえに、てきとうにやる。書きたい時は書けばいいし、残す気にならない本であれば遠慮なく横に置いておく。「読んだ本は全て記録する」などと誓いを立てれば苦しくなるだけ。「一行感想を残す」と決めていたとして、それができなくても気にしない。
▼ではどう読書記録をつけるのか?
幸いにして、今のノートテイキングツール、例えばEvernoteなどは本当に良くできている。すごいと思う(今現在のEvernoteにはいろいろ批判もあるようだが)。
これらのデジタルノートツールに、好きな形で書いていけばいい。
1枚の紙(比喩的な意味で)に、読んだ本や読みたい本をリストをまとめたり。
1枚の紙に、1冊のメモや感想を残したり。
あるいは1枚の紙に、あるテーマの複数の本についてのメモをまとめたり。
あるいは、Evernoteの中にある業務日誌的な紙の一部として「●●●●を読了」とだけ書いたり。
どんな形でもいい。
そして、これらをフォルダにまとめておく。
フォルダにきっちりまとめることができないかもしれないので、その場合はタグを使う。
どんな文脈の読書記録でも、どんな形式、入力方法、手書き(ならばEvernoteのスマートフォンアプリで画像化して)、スマホのこといで撮った書影……etc.でも、ただそこにタグを付けておく。
「#読書」などとタグを振っておく。
つまり、雑多な入り口から入ってきたものが、「#読書」というタグ一箇所に集中する、漏斗のようなイメージ。
これらを引き出すときは、そのタグで検索すればいい。これが、自分の読書記録であり、読書ノートであり、学んだことすべてだったりする。
言いかえればタグを付ける。そのルール1点だけ守る。その他の書き方とか形式とかフォーマットとかは気にしない。読んで、何も残さなかったものは気にしない。重要なものならまた立ち現れるはず。
▼しかし、それでいいのか? 「使える」のか?
確かに、これは最も効率的な道ではないかもしれない。学術的な精密さを求められる場面ではもの足りない。しかし一方で、多くの人に「有効」かもしれない、とも思う。ゼロよりは30点でも70点でもとれた方がいい。
読書に前向きな人。そこから何かを得ようとしたり。読んでもなかなか身につかないと思っていたり。読書習慣を身に付けようとしていたり。少なくとも、そういう人のきっかけにはなり得る。
例えば専用の(紙の)ノートを買って、そこに読書日誌が集まっている、というのは楽しい景色だ。読書専用のノートも売られている。そういうことができる人に憧れる。もちろんそれが楽しみで、それができる人はやればいいと思う。ある種の強みだと思うので、それを仕事に生かしたりしてもいいかもしれない。
しかし、多くの人が日記を続けられないのと同じく、読書記録もなかなかそういう域には達しない。ゆえに、「てきとうにやる」。
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しかしそれにしても、読書記録をつけることがいいことなのかどうなのか、ということも思っている。それを必要としない人も多いのではないか。続かないのは、必要としていないからなのではないか。何か「これからの時代を生き延びるために、本を読まなくてはいけない、吸収しなければならない」というようなプレッシャーを外側から与えられ、ムリをしていないか。
少し話を大げさにすれば、「自己啓発」みたいなものは、諸刃の剣。確かにそれで人生が改善するかもしれないが、場合によっては「こうでないといけない」「自分はかくあるべき」的なものに押しつぶされそうになっている人も見る。
だから、もし読書記録がうまくいかないなら、別にそれにこだわることはないと思う。別のその人なりの方法、道を見いだせばいいのでは、と思う。そこれそ「適当」な道を。