Notelets

誰かのために何かを作る日々の断章。試論。仮説。フィールドノーツ。

本が読めない時についての覚え書き

本が読めない時がある。なんだか買えない時がある。

つん読本を眺めて、あるいは書店をぶらついて、どれもおもしろいかもしれないけど、なんだかその気にならない。読むのがしんどい気がする。高いなあという気分が先に立つ。……とかなんとか。買えない。買ったとしても、読めない。読んでも、たいしておもしろくない。

本読みのみなさんは、そういう気分になることはないのだろうか。いつも本を楽しみにしているのだろうか。……わからないけど、自分と似た人もいるのではと妄想しながら、「自分の場合」を書き残しておく。特に結論とかお役立ち情報はないのであしからずm(_ _)m


▼体調のこと

単純に、体調の問題のこともある。目が疲れているとか肩が凝ってどうしようもないとか、そういう時はもちろん気分が乗らない。だからまずは体調を取り戻すことを考える。

熱い風呂につかる。ちょっとその辺を走ってくる。腕立て&腹筋する。休む。寝る。目の疲れなんかは意外に気付きづらいというか、疲れていてもどうにかなる範囲が広いように感じる。だからダメージが蓄積しないように、適度に、意識的に休む。

目の疲れに関しては、メガネが合っているかも時々気にする。なんとなくこのところアタマが重いとか集中力がないとかっていう時、メガネを替えるといいかもしれない。というのは個人的経験。

▼飽き・飽和

飽きている、という時もある。そういう気分になるとき、というか。

清水幾太郎の『本はどう読むか』という本に、そういう経験について詳しく書いてあった。少年だった頃、子ども向け冒険活劇小説に熱中したが、ある日突然おもしろくなくなって、すべて友人にあげてしまう、というお話。

 

“人間の精神の成長は、しばしば、飽きるという形で現れることがある。”

 ⇒本はどう読むか (講談社現代新書)   清水 幾太郎 

 

とても古い本だけど、とても好きな一冊。

英語だと「outgrow」とでもなるか。成長して、例えば服が着られなくなること。ウィズダム英和辞典ではこんな感じ。

 

"1〈人が〉(成長して)〈衣類など〉を着られなくなる; 〈昔持っていた物・習慣・考え〉がなくなる, …を捨てる, …に関心がなくなる
We've outgrown each other.
互いのことに関心がなくなった.
2〈会社などが〉(規模が拡大して)〈職場〉が狭くなる.
3〈ほかの人・物〉よりも大きくなる, …が追いつかなくなるほど拡大する
populations (that are) outgrowing food supplies
食糧供給が追いつかないほど増加する人口.”

 

growという言葉のバリエーションであることがおもしろい。言い換えれば、新しいテーマやジャンルが見つかるまでの端境期、ということだろうか。

物語でなく、科学だったり論説だったり思想だったり……アカデミックなテーマの本について考えるなら、「飽きる」というよりは「収穫が逓減している」と言った方がいいかもしれない。つまり、いろいろ読んだ結果、本から学ぶことが少なくなった状態。だからあまり読む気にならない。分野によってはそういうことがあるだろうと思う。あるいは、自分の興味がもはやそこになくなったか。それか、「わかった気」になっているか:-)

▼目的を見失っている

読むのに目的を持っていることがある。実用的な読書というか。例えば、魚釣りのために魚類の研究について読む、みたいな。

しかし、時々魚釣りのことを忘れて、魚類研究そのものに絡め取られる。欲している答えが見つからず、あれこれ探しているうちに「やっぱわからん、魚類学の基礎を理解せねばならん」などとアサッテの方向に向かって、魚釣りという目的を忘れてしまう。少し広げて言えば、手段が目的に取って代わる、的な。

そういう、専門的な科学の本は、読むのにエネルギーを要する。しかし、実はそれを理解したいわけではない。本当の関心は、魚釣りというごくごく実利的な興味。そうなると、その読書は「お勉強のためのお勉強」ということになって、楽しみというよりは仕事になってくる。そのまま読もうとしていると、理解は進まず、読むのが苦痛になる。

……とかなんとか、まあ迷走というか、このあたりの心理は微妙なものがある。とにかく、「本は読みたいものを読め」という原則があるとすれば、そこから遠ざかっていって、結果として読めない・買えないということになる。

▼欲しいもの(情報)がない

逆に、特に何も欲していない時、というのもある。課題だったり知りたいことだったりが思いつかない。あるいはエンターテインメント的なものも別の遊びで満たされている。特に本を読む必要もない、みたいな。枯れてしまった、と言える。

新型コロナのもとでの生活で、一時、ずいぶん活動の幅が狭くなった。ということは、刺激がない。刺激というとたいそうなものを考えがちだけど、なんと言えばいいか、課題や知りたい欲のタネみたいなもの。外に出たり人に会ったりすると、なにかしらの刺激を受け取る。もちろん各種メディアなどから入ってくる刺激はあるのだけれど、リアルな体験から生まれる動機は大きい。そういうものを得づらい状況では、本を読む動機や欲望も縮こまってしまう。

▼集中力を失っている

何か不安があるとか、生活上の大きな課題があるとか、そういう時は、それを解消するために読むようになることもあるが、逆にぜんぜん読書が手に付かない状態になるときもある。

あるいは、そういうその瞬間の集中力というより、少し長い期間の集中力を失って読めない時もある。大きなテーマの読書、例えば数日とか一週間とか一ヶ月とか、そういうスパンで社会学に取り組むとして、でもそれだけの精神的なリソースが空いていない。だから読めない。

……というのはとても個人的な話のように思えるけど、つまりは本以外のところに気持ちが行っている。当然そういうこともあるだろうし、別に悪いことでもない。存分にその課題に取り組むのがいいのだろう。

▼本棚に空きがない、本を置くスペースが足りない

本棚が片付いているのか、というのも重要な気がする。

当然、本はかさばる。増殖する。本棚が多少大きくても、時間の問題。すぐにいっぱいになる。本のために家を建てる、という究極の文人生活を見聞きすることがあるけど、もちろんそんなのは無理。限られたスペースでどうにかしなくてはならない。『蔵書の苦しみ』『本で床は抜けるのか』という類いの本は多い。

とすれば、もちろん整理しなくてはならない。不要な本を処分しなければならない。しかしこれには二重の苦労がある。

ひとつは、普通の掃除と同じように、単に面倒だという苦労。これはまあいい。

もうひとつは、その本を処分していいのかという判断をしなくてはならないこと。もしかしたらまた読みたくなるのでは、参照しなくてはならなくなるのでは、高かった本なので惜しい……とかなんとか、センチメンタルなものも含めて、本を処分するのは難しい。

理想は、自分なりの分類で美しく整理されていることだろう。そして常に空きがあって、買ってきた本を収められる。

しかし実際には、分類などしようもないほどごだごだと積み重なって、必要な本を引き出そうと思っても常に本の雪崩が起きてしまうような状態。

それが心理的な負担になっていると、新しい本を買う抵抗になる。我ながらばかばかしいと思うけど、これも凡夫の現実だと思って受け入れている。

 


……などと、なにかソレっぽく分類しながら書いたが、実際はとてもあいまいな心理だったりする。上記のような要素がからまってもつれあい、ただ「読めない気分」がふわふわと意識に登っている状態。だからちょっとしたことでまた読むようになるかもしれないし、意識が気付いていない、無意識レベルの障害だったら、ずっと読めない気分のままかもしれない。あいまいな心理、としか言いようがない。

「読めない時」と書いたけど、それは「読む方がいい」という前提が多少なりとも含まれた言葉かもしれない。言い換えれば、「本を読むべきだと思っているのに読めない・買えない時がある」とでもなるか。

しかし実際には、もし読めない・買えないのならば、別に読まなければいいと思っている。

若い頃は、何かしていないと不安とか、仕事がデキるようになりたいとか、単に賢くなりたいとか、そういう思いもあった。だから半ば強いるように読んだこともあった。が、もはや……、そういうモードでもなかったりする。自然になりゆきに任せるのがいいのでは、と老人のようなことを思っている(楽しみとしての読書、というのももちろんあるけど、それは一旦置いておく)。

食べたくないのに食べるのが体に悪いように、読みたくないのに読んでもよろしくない、というようなことを書き残したのはレオナルド・ダ・ヴィンチだったか。おそらくゲーテとかモンテーニュとかなんとか、そういう時代からいろんな人が同じようなことを言っているはず。だから、少なくとも今は、買えない、読めないと思っても足掻くことはしない。そう心がけている。

アタマで選ぶ道具、体が選んだ道具──筆記具の話

個人的に、「いつの間にか使うようになっている道具」というジャンルがある。

別に大きな期待を持って買ったとか、大枚をはたいたとか、誰もが認めるグッドデザイン製品とか、そういうことでもない。でも気がつくと使っていて、手に馴染んで、それなしだとちょっと困る、というような道具。


▼座右のボールペン、万年筆

左から、タイムライン、カスタム74、LAMY2000(ペンシル)。

いつからか、筆記具と言えば、個人的にはパイロットの製品。別にメーカーを意識して選んでいるわけではなく、その時その時で「いいかも」と思ったモノを買っているのだが、なぜか使うのはパイロット、という状態になっている。

例えばアクロボールというボールペン。イマドキの、油性だけどサラサラ書けるタイプのもの。同じジャンルの製品で、三菱のジェットストリームというシリーズもある。こちらの方が多くの人が使っている気もするのだけれど、なぜか個人的にはアクロボールがしっくりくる。

より具体的に言えば、例えばアクロボールのリフィルが入っている、「タイムライン」という繰り出し式のボールペン。

www.pilot.co.jp

繰り出し式一般のメリットは、不意にペン先が出てしまわないこと。ポケットに差しておくような時に安心。ただ、ノック式より手数は増える。しかしこのタイムラインというペンは、ペン軸が回転する動作がヌルっとカチっと決まり、その手数を感じさせない。片手でもすんなり操作できる。

そしてアクロボールのリフィルはストレスがなく、もちろん書いていていやな感じがすることはない。カリカリし過ぎたりダマになったり、あるいは乾きが遅いとかかすれるとか、一切ない。また、ペン軸と手、手癖の相性が良いようで、書いていて疲れない。

万年筆も、分不相応にモンブランなども持っているのだけれど、結局多く使っているのはパイロットのカスタム74という比較的安価な定番シリーズだったりする。

例えばツバメノートなどのちょっといい紙と合わせると、本当に気持ちよく、ラクに書ける。疲れない。引っかかるでも滑るでもない、ちょうどよい、しっとりとした書き味になる。

ビジュアル的なデザイン性みたいなものに関しては、海外の製品を使いたくなる。実際にいろいろ買ってみたりもしてきた。しかし……、いつの間にか使用頻度が落ちて、二軍入りしてしまうことが多い。

……というのは個人的な感想に過ぎないんだけど、とにかく、パイロットが手に馴染んでいる、ということ。

アクロボールもカスタム74も、言ってみれば、「体が選んでいる」のだと思っている。快適に使い続けられるもの、気持ちの良いものが、時の試練を経て残っているイメージ。パイロットのプロダクトデザインのベースにあるポリシーみたいなものが、自分の感覚とマッチしているのではないかと思ったりする。


▼体が選ばなかったボールペン

対して、アタマで道具を選ぶこともある。というか、通常、何かを買うときにはそういう理性の判断を多少なりとも伴う。

例えば、LAMY2000というペン。美しい。と思って、実際に買った。「美しい、しかもに欲しいと思っていた多色ボールペン、これがあれば他に要らない」などと妄想して、買う。感性も含んでいるけど、基本的にはそれもひとつの要素として、理性で判断する。

しかしその後、実際にはあまり使わなかった。前述の「体で選ぶ」試練を乗り越えてくれなかった。

LAMY2000のシリーズは、軸の指先がかかる部分が下に向けて細くなっている。ということは、書いていて指が下に落ちる(表面処理も滑りやすい)。ズレていく。それを防ぐために強めに握らなくてはならない。純正のリフィルは書き味が重くて、筆圧が必要。結果として、手が疲れる。疲れるというか、長く書いているとどこかが痛くなってくる。美しいけど、個人的には使い続けられない。誰もが認めるグッドデザインな製品なのだが、自分にはそれが使いこなせないのが惜しい気もする。


▼目的志向的な観点と道具

こういうことは他にもたくさんある。いいな、と思って買ってもいつの間にか使わなくなってしまうモノ。ひとさまがいいというので買ってみたモノだけど、自分にはそうは思えない。これがあれば捗る、と考えて買ったものの、意外に使わなかった。

何かのお勉強をしようと思って、手書きで学ぶとして、疲れずに書き続けられるペンとノートがあるのは、個人的に非常に重要。疲れたり手が痛くなってしまう道具だと、勉強そのものがイヤになる。すぐに投げ出したくなる。若いうちはどこかが痛くなったりしづらいと思うが、悲しいもので、加齢と共に耐久性は落ちた。そしてそれは、実際に使ってみないとわからない。

その他もいろいろ、同じようなことを思いつく。スキーとかスノーボード初心者の第一の壁は、足が痛くなること。慣れない服や道具の不快さ。初体験でこれがない道具と出会えたら、幸運だと思う。自転車なんかはもろにそれがある。尻が痛くなってはまったく楽しくない。魚釣りでも、そういうことがある。ある釣れる確率が高い動作があったとして、それを淡々と続けられるか。その動作と道具がマッチしているか。リールの巻き心地に嫌な感じがないか。カメラというか写真を撮るという技術も、そのカメラに手が馴染むかが重要になる。読書するにしても、メガネが目に合っていなかったら。

さらに言えば、使っていて、快感と呼ぶべきものが感じられるか。なんて。

おそらく、みなさんがみなさんなりの、長く付き合っている道具がおありなのだろうと思う。そしてストレスがない道具、使っていて気持ちのいい道具というのは、何事かを為すという目的志向的な観点から言うと、かなり重要、そして軽視しがちなのではという感じもする。お子さんが、快適に書ける筆記具を手に入れたら急に勉強をするようになった、という話を聞いたこともある。何かが続かなかったら、道具がハマってないのではないか。ほとんど無意識のレベルでストレスを感じていないか。逆に、その道具を使うのが気持ちよくなったら、何ごとかを為す土台が固まった、いける、頼もしい、という気がする。

凡人の、とある学びのスタイル⇒「なし崩し志向」

その昔、哲学という学問と格闘してみたことがある。

哲学と言えば、わからんことで有名。難解。だから入門書と言われるものを読んでみるのだけど、入門書がもうわからない。「?」の連続。そもそもなぜそんなことにこだわっているのかすらわからない。「物自体」という耳慣れないキーワードが出てきたとして、その定義を懇切丁寧に説明してくれているはずなのにもかかわらず、理解できない。「はあ? 何言ってんの?」と思っちゃう(すみません)。

それでもしばらく、しつこく読んだり考えたりしていた。10冊か20冊かそれ以上か、手間も暇も、自分なりに結構使った。しかし、わからない。わかったと思える瞬間がない。

それで少し離れたり、仕事に忙しくしていたり、別のことに取り組んだりしていて、一息ついたタイミングでフと、難解で有名な『純粋理性批判』が視界に入る。そして手に取る。開いてみる。するとこれがあら不思議、「あ、こういうことだったの?」と少しわかったような気がする。少なくとも手がかりがつかめたような気がする。

けっして、バン!と新しい世界の扉が開いたように理解したわけではない。そうではなく、ズルズルっと、いつの間にか何かを理解している。振り返ってみて、「……ああ、そういうことを言おうとしていたのね……」となる。

普通、モノゴトを理解する時、前者のようなイメージをしているように思う。何か決定的な「これだ!」というポイントがあって、それを理解するといろいろ新しい扉が開かれる。これまでわからなかったことのつじつまが合い、構造やメカニズムや核心をぐっとつかめる。美しい「エウレカ!」の瞬間。あるいはその哲学の用語で言えば、「コペルニクス的転回」(違うか)。

もちろんそれもあるのだが、自分が「哲学がわかる」と感じたような、ズルズルとした理解。これもけっこうあるように思う。

例えば外国語の学習も、そういう側面がありそう。

文法を学んで、「あ、そういうことね」と思って実際の文章を読んでみる。が、たいていわからない。単語の意味はわかるのに、文章としてはわからない。しかしズルズルと(あるいはめげずに積み上げていると)、その文法の知識を使えるようなっている。「わかった!」というより「ああ、読めるかも」みたいな。少なくとも個人的にはそういう感じを持っている。数学なんかも同じようなところがある。言い換えれば、知識と技術の違い、なのかもしれない。

少し広げて言ってみれば、「効果は遅れてやってくる」とでもなるか。

生活や仕事の技術も、学んだ直後にはアタマだけで理解している状態で、しかし少したってから、実際に使えるようになる。効果は遅れてやってくる。筋トレだけじゃなくて、アタマの方もそういうところがありそうだ。そしてさらに「きちんと」理解したいならば、また深めて行きたいのなら、もうそれに向けて動ける状態になっている。それだけの土台ができている(……と思いたい)。

だから、あまり焦らない。わからない、自分には無理、と感じてもあまり思い詰めない。自分に必要なことなら、いつかわかる時が来る。……そのくらいの心構えでいいように感じている。

何か学ぼうと思った時の「計画」も同じだ。計画してそれを淡々と実行していける人に憧れる。尊敬する。しかし、自分はそういうデキの良いタイプではない。むしろなし崩し的。ズルズル。一応、計画らしきものを立てたりはするのだが、まったくそのとおりにはいかない。その場その場で方針転換、手当、対処、つぎはぎしていくスタイル。

これを「ズルズル志向」ではあまりに情けないので、「なし崩し志向」と心の中でひそかに名付けている。……いっしょか。いずれにせよ、凡夫の読書術、学習法。

創造性とかクリエイティビティとかなんとかの読書リスト

このところ、創造性というテーマに触れていた。

仕事をしていて自分の企画がつまらないと感じたり、「合理的だがあたりまえ」のことしか出てこないことがきっかけになっていたようだ。コロナで活動の幅が狭くなったことも遠因なのかもしれない。

ただ、よくわからないテーマでもある。つかみ所がないように感じる。何が創造的であると認められるのか。大きな発見だけなのか。科学的な発見と、お笑い芸人の方々が大喜利で笑わせること(すごいことだと思う)と同列に扱っていいのか。考えを突き詰めた哲学と新しい事業の創出は同じなのか。

ドラッカーもそんなことを言っていたらしい。


  私は創造的だと言われますが──私にはその意味がわかりません──。


心理学者のM・チクセントミハイが創造性についてインタビューさせて欲しいと依頼したとき、そんな言葉を添えて断ってきた。そう後述のチクセントミハイの本にある。つまりドラッカーはよくわからない創造性というテーマには関わることを意図的にせず、代わりに生産性にこだわっていた。

とは言え、いろいろ読んでみて、原則的なことだったり、参考になりそうなことはある。私的な結論めいたことをまとめれば、以下のようになる。

①やれ:集中せよ、フローせよ、課題に深く関わり続けろ、こつこつと試行錯誤せよ
②視点を変えろ:時には違う角度から見て取り組んでみよ
③失敗することを許容せよ:ダメなアイデアも含めたくさん出せ
④動け:創造的な環境に、また創造的であることが受け入れられる環境に身を置け
⑤なんでもきっかけになり得る:身体や他者、文化……も創造性の源と知れ


▼M・チクセントミハイ『クリエイティビティ』 権威の集大成

そのチクセントミハイの本。そのままずばりのド直球タイトル。それだけの自負があるのだろうと思う。

    ⇒『クリエイティヴィティ―フロー体験と創造性の心理学』   M.チクセントミハイ
     https://www.amazon.co.jp/dp/4790716902/

この本は言わば「伝記的アプローチ」で、これまで大きな発見をしたり産業の姿を変えたりした人々に取材して、その結果をまとめ、考察している。

その考察の軸は、チクセントミハイの「フロー」という概念だろう。こちらも重要な本。

    ⇒『フロー体験入門―楽しみと創造の心理学』   M.チクセントミハイ
     https://www.amazon.co.jp/dp/4790714799/

つまり、何かに集中して没頭することが、創造性を花開かせる。逆に言えば、ギリギリカツカツアワアワの心理状態で創造的になれるはずがない。今流行りの心理的安全性にも関わる。

もちろんその他の、環境や教育、文化、言語……といった諸要素についても考察している。また、最終章は個人の創造性をどう高めて行くかの実際的アドバイスもまとまっている。


▼『創造性はどこからくるか 潜在処理、外的資源、身体性から考える』 及び『越境する認知科学』シリーズ

こちらは言わば客観的アプローチ。傑出した誰かの話、というよりも実験でわかるようなことにフォーカスしていくタイプ。

これまでの研究結果を平易にまとめてくれていて、斯界の全体を見渡すことができる。かつ、その先も提示してくれている。ありがたい。

    ⇒創造性はどこからくるか: 潜在処理,外的資源,身体性から考える (越境する認知科学)   阿部 慶賀
     https://www.amazon.co.jp/dp/432009462X/

この本によれば「ひらめき」の生まれ方の説明は、5つに分かれるという。そして今のところ、学術的にはどれも決定的な説明ではない。……これは個人的体感と同じ。どれもあるし、当てはまらないこともあった、と思える。

    ・ひらめきは連想の先にある(活性拡散アプローチ)
    ・ひらめきは考え尽くそうとした人に訪れる(問題空間アプローチ)
    ・ひらめきは良いきっかけやヒントを得た人に訪れる(機械論的アプローチ)
    ・ひらめきは常識にとらわれない人に訪れる(制約論的アプローチ)
    ・ひらめきは存在しない(標準的問題解決アプローチ)

余談だけど、このシリーズの編集代表の鈴木宏昭先生にはお目にかかって話し込んだことがある。それ以来、飾らぬ人柄のファンになった。一般向けの書籍ではその一端が見えて楽しい。もちろん内容もすばらしい。

        ⇒『教養としての認知科学』   鈴木宏
         https://www.amazon.co.jp/dp/B07JGQ7BNV/
        ⇒『認知バイアス 心に潜むふしぎな働き (ブルーバックス)』   鈴木宏
         https://www.amazon.co.jp/dp/B08LD8MJFW/ 

    ↓より平易なウェブ記事も。
        https://scienceshift.jp/cognitive-science01/
        https://scienceshift.jp/cognitive-science02/
        https://scienceshift.jp/a-mind-that-seeks-the-cause/
        

▼アーティストなどのスタイル論

仮にスタイル論などと呼んでみた。

起業家やアーティストが、自分がどう創造に取り組んでいるか、そのメソッドや心構えや経験談……等々をまとめた本。つまり、経験則的な方法、というところ。

    ⇒『発想する会社! ― 世界最高のデザイン・ファームIDEOに学ぶイノベーションの技法』   トム・ケリー
     https://www.amazon.co.jp/dp/415208426X/
    ⇒『クリエイティブの授業 STEAL LIKE AN ARTIST "君がつくるべきもの"をつくれるようになるために』オースティン クレオ
     https://www.amazon.co.jp/dp/4788908050/
    ⇒『天才たちの日課』メイソン・カリー
     https://www.amazon.co.jp/dp/B01M70KAK0/
    ⇒『「クリエイティブ」の処方箋』ロッド・ジャドキンス
     https://www.amazon.co.jp/dp/B076P6YCHJ
    
楽しく読めるし、あるいはインスパイアしてくれたり、ケツを叩いてくれたり、「これだ!」と思えたりする。

とは言えいずれも、コツコツと続けることの重要性を語っているようにも思える。


▼アイデア大全、問題解決大全

創造性という概念にとらわれず、その具体的な方法論に着目するというのもひとつの道だと感じる。なにせ掴みどころがないテーマなので。

その白眉が読書猿さんの『アイデア大全』と『問題解決大全』だ。おそらく誰にでも「使える」本であり、その先へ誘ってくれる本でもある。

    ⇒『問題解決大全 』 読書猿
     https://www.amazon.co.jp/dp/B078GNFFYT/
    ⇒『アイデア大全』 読書猿
     https://www.amazon.co.jp/dp/B06XFPYZ8P/


▼問題発見、問題の定義というテーマ

一般的に、問題の定義という課題が創造性という切り口で語られることは少なそうだが、正しい問い、有効な問いを発することも、もちろん創造性の重要なテーマでもある。例えば、

    ⇒『ライト、ついてますか 問題発見の人間学』ドナルド・C・ゴース ジェラルド・M・ワインバーグ
     https://www.amazon.co.jp/dp/B09BDWRCXN/
    ⇒『問いこそが答えだ!~正しく問う力が仕事と人生の視界を開く~』ハル・グレガーセン
     https://www.amazon.co.jp/dp/B088TQM1X6/

……など。

当然だけど、間違った問いに答えを出しても意味がない。逆に、正しい問いを発することも、創造性のひとつの働き。……こうなってくると、入れ子orサーキュラーなテーマになってきて、またよくわからなくはなるけど。

哲学という世界も、おそらく「問い」が極めて重要というか、問いこそ哲学、とまで言えるのではないかと理解している。

さらに言えば、イノベーションという研究分野にも関わる。デザインシンキングとかアート思考みたいな切り口もある。広げ過ぎるとより混沌としてくる:-)

 

 

以上がざっくりとしたメモ。

別の方向に話を広げると、あるいは、禅とか仏教の修行=悟り=ひらめきという課題にも関連しているかもしれない。そんな気もしている。

例えば、法華経の「等覚一転名字妙覚」という言葉。難しくてよくわからないけど、解説によれば、誰もが悟りを目指して進んでいくが、悟りはその歩みの延長線上にあるのではなく、実は歩き始めた時の足下にある、という意味らしい。もちろん法華経を読んだわけではなく、この本で知った。

    ⇒『等伯 上 (文春文庫)』   安部 龍太郎
      https://www.amazon.co.jp/dp/416790442X/

単純に言えば、初心に返れ、実は答えは近くにある、ということだろう。もちろんその先に歩み出すから見つけることができる、という側面もある。追究は無駄ではなく、気付くためのプロセス。……あるいはこれも、コツコツと続けることの重要性を語っているのかもしれない。

凡人と読書──あるいは言い訳と開き直り

凡人、というのは自分のことだけれども、凡人は凡人なりに読書のスタイルがあったりする。もちろん完全に固定されているわけではなく、変わっていく。試みに、今の感じを書き残してみる。

全体として、肝心だと思っているのは「好きにする」ということ。

好きなものを好きに読む。これに尽きる。

例えば、世の読書術を読むと、ああせいこうせいと書いてある。もちろんそれらは参考になるし、確かに役に立つことも多いけど、自分にフィットしないものは採り入れない。というか結局のところは自分にフィットするものしか採り入れることができない。

例えば本は書き込みをしながら読めという。赤ペンでマーキングしながら読めという。マルジナリアだという。確かに役に立つし、実際にやっている。

しかし、それは、書き込みしたいと思った時だけ。常にそうしないとけないわけではない。そうしたいと思わせてくれる本に出会ったときに、そうする。凡人はいつも本に100パーセントのエネルギーを注げるわけではない。ぜんぜん集中できないときはしょっちゅうある。というかそれが初期設定状態 :-0

読書ノートとか読書記録とか、そういうのも同じ。残したいと思ったものだけ、ノートに残す。そのノートも、完全に整理しようとは思わない。そういう性格ではない。時にはきっちりしたくなったりもするけど、しかしいつもきっちりしていることはできないのが凡人。単にめんどくさがりか。

本選びも同じで、フィーリング。例えば古典を読めとみなさんおっしゃるけど、その御意図もわかるけど、正直しんどい。その分野の必読書みたいなものもあったりすると思うけど、読みたくならなければ読まない。ミステリを読む時、ポーから始まってドイル、クリスティ……とかって系統だって読むこともできると思うけど、別に。読みたいモノを読む。そういうある種の学術的な読み方をしたくなったら、する。

時には「本への憧れ」みたいなものを持ったりもする。例えば、「シャーロキアンっておもしろそう」「やっぱグレッグ・イーガン」「フランス現代思想ってなんかかっこいい、喫茶店でそんな本を読んでみたい」……みたいな。今はそういうこともなくなったけど、もしそう思うならやればいい。凡人はひとさまの目から自由になれないので、そういうことは恥ずかしいと思ったりもするのだけれど、でもまあやればいい。それも凡夫ならではの楽しみのひとつかもしれない。

読書の量については、もちろん多くの書物を読むことなどできない。世事がある。腰が痛い。目の疲れ、かすみ。心配事。読書を妨げる要素は多い。もし仮に読めたところで、消化できない。それほどの知的体力があるわけでもない。エネルギーや探究心もない。

しかたがないので、「目を通す」ことにはしている。つまりきちんと読まず、目を通す。そして良さそうだったら、ちゃんと読んでみる。そういうことをして、良い本と出会う確率を高めている。小説とか物語とかはそういうこともできないので、読むが、途中でやめる。

時には、お勉強をしようと思うこともある。あるいは勉強しなくてはならない。これも、少しでも好きになれるところから始める。例えば哲学の勉強をしようと思い立ったとする。その時、まずは多くの入門書云々に目を通す。そして、なんだか気になるモノ、良さそうな1冊から初めてみる。てきとうに。「この本がベスト」「この本が評判いい」という情報も視界に入るけど、それはそれとして気にしない。自分にフィットしそうなものを探す。


まとめれば、冒頭の、「好きなものを好きに読む」。

言い換えると、自分なりに読む、ということだろうか。

自分なりに読むと言うと、誤読したりかんちがいしたり独善に陥ったりなんだり、間違う可能性もある。でもそれはしかたがない。学者さんならそうはいかないだろうが。

それに、誤読はクリエイティブだ(と言ってみる)。単なる誤読はそうでもないかもしれないが、誤読なりにつじつまが合っていたり、説得力があったりすれば……それは解釈かもしれない。それに、そもそもちゃんとは読めないと言っている学者さんもいるので信用することにする(ピエール・バイヤール)。あるいは、誤読も凡夫の思想と言えるかもしれないとも思う。自分なりに役に立つこととも言える。


少し突っ込んで考えてみると、あえて「好きに読め」なんていうことは、「こう読め」というプレッシャーを感じているのかもしれない、とも思う。それは今のなんでもかんでもきちんとしていることを目指す世の中の圧かもしれない。あるいは単に、きちんと読めないことに負い目を感じているのかもしれない。

凡人は凡人なりに、世の中の空気を読む。そして息苦しいと感じる。成果。効率。ポリコレ。道徳。倫理。生産性。競争。成功。そういうのがなんだかイヤ。別に正義論とかマルクスとかブルシット・ジョブとかマイケル・サンデルとか、そういうことを持ち出さずとも、「かんべんしてくれよ」と感じる。

世に出回る本たちも、そういう今の価値観を反映する内容になっていく。効率のいい読書、身につく読書、読むだけで生産性10倍、3日で教養が身につく本、成功するための読書術……。

そういうのを見ても「はあそうですか」となる。あるいは時にはカンフル剤的な効果を発揮することもあるが、すぐに「俺にはムリだった」となる。しかしそれでも圧を受ける。こうでなきゃいけないのでは。自分はちゃんと読めてないのでは。これくらい読んでないと恥ずかしいのでは。なんとなくそんな気がしてくる。

ましてやもっとマジメな人は……、「そうじゃなきゃいけない」と真剣に思ったりしそう。そして挫折する。心が折れる。どうせ俺なんて、と幻滅する。絶望する。

できれば、楽しく読みたい。もちろん自分を高めるために読むというのは、それはそれでひとつの道。それが楽しいうちはいいだろうと思う。しかし、それが全てではない。それに、だいたい同じようなことをループするはめになるし、もし、本を使って自分を偽って、そのうえで「高いところ」にいるのなら、後が辛くなるだけ。

あるいは、苦しいから読む、というのもあるが、あまり苦しいことに付き合っても、つまり自分の中をのぞき込んでも、凡人は捗らない。下手の考え休むに似たり。……休むぐらいならいいが、ドツボにハマることもある。もちろんとことん悩めるなら、思想の域にまで発展するかもしれない。が、それはもちろん凡人の仕事ではない。

だから、自分には「好きに読めよ」と言う。まじめな人、あるいは自分の中のまじめな一面に向けて付け加えるならば、「ほどほどにね」と言いたい。

無条件に、本を読むことはいいことだと言う人がいる。そうなのか?と思う。読まなくてもまっとうに暮らしていけるならその方がいいのではないか。これからの世界を生き延びるために、というような切り口はよく見るが、それは強迫じゃないのか。親切心で書いているのだとは思うが、果たして有効なのか。

もちろん、そういう価値観にNOという本を作ってくれる人もいる。「そういう圧力は違うんじゃない」と言ってくれる本もある。あるいは単純に、そういう価値観から距離を取らせてくれるものもある。物語とか韻文とか、あるいは哲学の類いもそうかもしれない。ありがたい。そういう本もあるから、未だに本を読んでいるのだと思う。


……などと、試しに書いてみた。別に普段からそういうことを考え続けているわけでもない。ただ、結果としてそうなっているというだけ。最近まじめ過ぎて疲れてしまった人を間近に見たので、そういうものに引きずられた部分もある。

読むべき本にたどり着くためのマイ現実解

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「読むべき本」というのは存在するのだろうか。

通常、もちろんそれはその時の目的次第だろうと思う。例えば仕事である分野、製薬業界、について知らなければならない時には、そういう本があるはずだ。

しかし、「読むべき」と言われると、なぜだか反感を覚えてしまう自分もいる:-) 何を読むかくらい、自分で決めさせて欲しい。他人に言われて読む本はおもしろくない。……我ながら子どもっぽいとも思うが、そういう感じが抜けない。

例えばインターネッツで、「人生を変えるために読むべき5冊」なんていう見出しを見ると、『なんで俺の人生について、他人がどうこう言えるんすか?』と思っちゃう。まあいちいち反応するようなモノでもないとは思うし、ことばのアヤ、コピーライティングのアヤというモノだろう。

▼読むべき本の探し方ベーシック

とは言え、そういう作業をすることもある。今の自分のやり方を残しておく。

ジャンルや学問としての分野が確定されているようなものについては、読むべき本を挙げやすい。そしてそのリストには説得力を伴う。

例えば英米文学について体系的に学ぼうと思ったら、シェイクスピアから始まり……というある種のベーシックがあるはず(聖書かギリシア神話からかな?)。

そしておそらくそうした読むべき本は、その分野の入門書にまとまっている。あるいは、そのものズバリ、「社会学の名著30」というようなぐあいでブックガイドがある。いずれも専門家が書いているはずで、特に大学教授というような肩書きがある人なら、そうそう大外しはない。

あるいは、勉強的なことでなくとも、ガイド本が出ているものも多い。ミステリ小説ベスト100とか、「このミス」とか、どの作家がどういう作風で……と知り、自分が読むべき・読みたい本にたどり着ける。

そこまでジャンルが確立していなくとも、かなり絞られたテーマなら、読むべき本を見つけやすいはず。例えばあるプログラム言語を学ぼうと思ったら、「Python 本」などとGoogleに聞いてみると、いろいろな人がいろいろなことを言ってくれるはず。

もちろんひとつひとつの検索結果は、玉石混交というか信頼していいのかわからない。とんでもなくマイナーなものやキワモノが読むべきリストに入っているかもしれない。しかしいくつかのサイトを眺めてみれば、平均的に認められている本が見いだせる。あとは書店で自分の目と手で判断すればいい。

まとめれば、

①入門書やガイド本があるならそこから探してみる。
②ないなら、複数の情報をつなぎ合わせてみる。

……というところか。普通。②から始めてもいいのだろうが、信頼性を優先して①から始める。


▼問題は、そこまで系統だっていないもの

これまで書いたような、ジャンルや分野が整っている分野、あるいは検索キーワードにできるテーマは難しくない。

しかし、そこまで系統だっていないものや、検索キーワードにしづらいようなものもある。

例えば、「人生」とか「教養」なんていうテーマは、キーワードが大きすぎる。おそらくぼやけた解しか返ってこないのではないか。

あるいは、その課題に対して、適切な名前が見つからないこともある。例えば、今のこのモヤモヤした気持ちが「インポスター症候群」だと知らなければ、その対策(=読むべき本)にたどり着きようがない。あるAという曲がXというジャンルだと知らなければ、もっと同じような曲を聴きたいと思っても、他のアーティストを探せない。言い換えれば、その情報に直接たどり着くことはできない。探索しなければならない(本の話じゃないけど)。

▼ではどう「読むべき本」にたどり着くか

他人が教えてくれる本を探すのは簡単。しかし、そのひとさまも、課題がなんなのかわからなければ、答えようがない。

もしくは、その課題はとても個人的なもの、あるいはマイナーなもので、他の人が気付いていない問題かもしれない。そういうのは意外に大事だったりもする。

だとすれば、もし書物という世界で答えを探そう、書物を使って考えようと思うなら、乱読しなければならない

言い換えれば、いろいろいろいろ読んでみる。眺めてみる。そのなかからピンとくるものを見つけ出す。ヒントを得る。結局のところ、そういう段階を経る必要があるのではないか。

(インターネットの検索も、結局は同じことをしているのかもしれない。あれこれみてみる、そして価値があるものを拾い出す。……しかし、近頃は検索結果がなんだかイケてない、と感じていて、インターネッツの海を泳ぎ続けることができない)

おそらく「本読み」な人たちは、自然にそういうことをしているのだろう。これの行き着く先が、文献系の学者さんなのかもしれない。

もちろん金も暇も必要で、「コスパ」は悪いかもしれない。インスタントな答えがあふれる時代にはそぐわないのかもしれない。時代遅れ。しかし、その価値はある、というのが個人的な感想だし、それ以外の方法を知らない。若くて賢い今の人たちは、どうしているのか知りたい。

(学術的には、一定の手法があると思う。あるいはビジネスのリサーチの世界でも、ある。例えば⇒リサーチナビ https://rnavi.ndl.go.jp/rnavi/ しかし結局、いろいろ目を通すということには変わりないように思っている。)

▼「乱読」の個人的方法

そもそも乱読なのだから「方法論」みたいなものはないと思うのだが、個人的な「こうしている」はある。記録として残しておく。

キーワードにすれば、「眺める」ということになる。

読む、というよりも眺める。ざっと読む。目を通す。そんなニュアンス。

当然ながら、乱読だからと言って全てを読むことはできない。というか、きちんと読んでいたら、いつ「本丸」にたどり着くかわからない。だから、まずは冊数を優先する。

具体的には、ある分野を学ぼうと思ったら、まず書店で多くの本を手に取ってみる。もちろん売り物を傷めないようにしながら、ざっと眺めてみる。そして1冊に絞るのではなく、数冊買う。新書や選書でそういう入門書があれば、うれしい。もしくは、図書館で借りてくることもある。

分野が特定できないなら、(仮)として、とりあえず関連がありそうな棚から選んでくる。

そして一冊一冊を初めからきちんと読んでいくのではなく、ざっと全てのページに目を通す。そうすると、なんとなく、「これが良さそう」という直観が沸いてくる。

そうしたら、その本をきちんと読む。そういう2段階の読書をする。

つまり、いったん本を積み上げてみて、眺めて、そこから選び出す。2段階乱読法。ということになるか。

▼なぜ2段階か

個人的には、集中力がない方だと思っている。だから、たくさんの本をきちんと読む能力がない。よって、こうして集中すべき本を選び出すようにしている。自然に、ダメな自分への対応策を作っていた感じ。

とは言え、例えばあの佐藤優氏もそんな読み方をしているようで、原理としては間違っていないのでは、と思っている(もちろんわたしなんぞを佐藤氏と同列にしていいわけないけど)。

読書の技法   佐藤 優
https://www.amazon.co.jp/dp/4492044698/

きちんと読まなかった方の本を後から読むこともあるし、それで何かを得ることも多い。初めはピンとこなくても、後から理解できることも多い。どの本も何か教えてくれる。考えさせてくれる。

逆に言うと、自分とそりが合わない本で挫折しないようにする、という側面もあるかもしれない。ピンとこない本に執着して、本当はおもしろいテーマをつまらないと思ってしまって、そこでやめてしまうのは……、もったいない。

さらに、自分が選んだところから入っていくほうが、楽しいのではないだろうか、とも思っている。ひとさまのリストはありがたいものだが、まるきり受身ではつまらない。むしろ苦しいとさえ言えるかもしれない。しかし自分で選択したものなら、前向きに取り組める。苦しさというより、希望になる。そんな性質の違いを生むのではないか。そんな気がしている。

 

 

言ってみれば、

・ひとさまの作った「読むべき本」リストはまあいいとして、
・自分なりの「読むべき本」を作れるようにする。

……ということになるか。

だとすれば、冒頭に書いたような「反感」は生じない。また、「読むべき本」は存在するが、それは自分で作るもの。そう捉えている、と言えるかもしれない。

朝の読書と、昼間・夜の読書について

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読書は、どの時間にするのがいいのだろうか?

夜、ひとり静かに読書、というのはステレオタイプかもしれないが納得できるイメージ。日中だったら、移動の時間だろうか。朝は……みなさん朝に読みたいと思うのだろうか。

個人的には、朝に読むという習慣はない。

世の中的には「朝の読書運動」という具合で、朝に本を読むことを薦める向きもあるようだ。確かに朝はその一日の流れを決める要素があるかもしれない。朝に読書すれば、なんとなく落ち着いた、整った日を送れそうな気もする。それに毎朝のルーティーンとすれば、「読書習慣」が身につくかもしれない。

しかし個人的には、あるていど歳をとって、朝がつらくなくなると、朝は一日の中で一番頭が冴えている時間だと感じるようになった(当社比)。ということで、その時間は、なにごとかを考える時間に使いたい。読むという受動的なタスクではなく、何かを生み出したり答えを導いたりすることに集中したい。本を読んでいる場合じゃない。読むのはそのあとで。

▼昼間に読むこと

しかし、日中に読めるかといえば、そうでもない。

平日はもちろん仕事がある。自分がやらなくてはならないこともある(読書とは関係がある仕事でもあるが、読書そのものが仕事というわけでもない)。「あの件どうなっているかな」「進行中のこの件、大丈夫だろうか」「あの提案仕事、気が重い」「ミスった」……とかなんとか、気になることも多い。集中しづらい。

仕事に近い読書なら、それはやらなくてはいけないタスクだから、まあ読めないことはない。「スキャン読み」というか、必要なことを抽出するような読書はよくしている。しかし、「現実」から少し離れたような読書は……難しい。自分がまったく不案内なテーマを、集中して読み込むようなことも難しい。

週末の昼間なら、まあ読める。しかしつまりその時間は自由が利く時間であり、何か買い物とか魚釣りに行くとか……別の行動の可能性もある時間だということも言える。気が散る原因になるかもしれない。

▼夜ならどうか

夜はもちろん読める。日中の実務的な要素から解放されて、さらにその他にできることも少ないから、集中しやすい。

しかし、家人のこともある。子どもが騒ぐとか配偶者とのコミュニケーションが……とかなんとか。多くの大人は、そういう夜を過ごしてるのではないか。

▼再び、朝の読書について

じゃあ朝なら読めるのか。まあ確かに読める時間かもしれない。それなりの年齢になると、早起きになっていくことが多いと思う。朝がつらくなくなる。よって、その時間に読むのは悪くない。

(若い人にとっては読書なんかより少しでも長く寝ている方がいいことも多いだろうから、例えば小学生に「朝の読書のすすめ」と言っても無理筋、と思っちゃうけど、どうなんだろう。)

個人的には、前述の通り、朝に読書をすることは多くない。あるとすれば、本当に難しい本に取り組む時。自分がまったく知らない世界で、かつ文章やメッセージが難解なもの。例えば哲学の本なんかがそれにあたるだろうか。そういう本に集中して取り組むときは、朝に読んでいる。(そして年々、そういう時間は増える傾向にある。)

こうして振り返ってみると、全体としては「一日のなかで本を読む時間・タイミングなどない」ということになる。世俗の人として、あれこれ責任ややらなければならないことがある。自分の時間を持つのはなかなか贅沢なことだ。

 

 

▼じゃあいつ読めばいいのか?の別の解

これまでの駄文で「いつ読むのがいいか」という疑問を想定していた。しかし、実は「読んでしまう本とはどういうものか」を探すのがいいのではないか、とも思う。

つまり、いつ読むかではなく、何を読むか。

それだけおもしろい/興味深い/楽しい/続きが気になる/役に立つ本なら、時間など気にせずに読んでしまうはずだ。能動的に読めば、身にもつくはずだ。そういう本を探せ。

……とは言え、そういう本をどう探すのか? 究極的には、多くの本に目を通さなければならない。今、自分が欲しい本を探索しなければならない。ということは、読書しなければならない。しかしそんな時間・タイミングはない。

……と、ループしてしまう :-(

言いかえれば、読むには、無駄を受け入れなくてはならない。これは、忙しいコスパ社会には難しいことなのかもしれない。本の売り上げは年々落ちているようだが、それもしかたがないことなのかもしれない。

読書の効用はマイルドだし、遅れて効いてくる。おもしろYouTubeを見て笑ったり、SNSでリアクションをもらってドーパミンを出したり、ソシャゲに課金してインスタントな万能感を得たりするのとは違う(そういうことも必要なのだと思うが)。

それを受け入れて、乱読してみる。あれこれ読んでみる。金を使ってみる。時間というコストを支払ってみる。朝昼晩などこだわらず、いつでも少しでも読んでみる。もし読書という沼に分け入ろうとするのなら、つべこべ言わずに読みやがれ。……そういうことなのではないか。